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春:百四 (1/3)

 勝子の死が岸本の耳に入ったのは、二月程前のことであった。岡見兄弟は早く報知しらせを受け取っていたのであるが、岸本へは話さずに置こうというので、知らせなかった。夏休みの終わる頃、麹町の学校へ寄った時、岸本は寄宿舎の舎監から始めてその話を聞いた。「安井さんのことを御存じですか」と舎監が勝子の姓を言って尋ねるから、「いいえ」と岸本の方で答えると、舎監は「最早御忘れに成ったかも知れませんが」と言ったような調子で、それとなく岸本の顔をながめて、「安井お勝さんという生徒が御座いましたろう―あの人も亡くなりましたよ」と種々な人の噂をするついでに言い出した。それを聞いた時は、思わず岸本もあかくなった。他の生徒とは違って、妙に勝子のことは尋ねにくい。何日いつ亡くなったか、どうして亡くなったかとは、確かめかねたのである。その帰途かえりには、じべたたかく持ち上がったり、空が黄色く成ったり、そこいらに在る物のかたちがグラグラうごいて見えたりした。

 秋の学報を手に取るまでは、それが事実とも思われなかった。大川端へ出掛けて薬研堀やげんぼりの縁日を見に行った夜なぞは全く夢のようである。灯と、煙と、草の香のなかに、新婚の人々が私語ささやきを聞いた時、思わず岸本は胸をおどらせた。勝子はこの世に生きているとしか彼には考えられなかった。

 学報は岸本の夢を破った。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)