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春:百三 (1/2)

 大根畠は麹の香のする町で、上麹、白米と記した表障子、日あたりのい往来のわきし並べたおけ、軒下に積み重ねた松薪まつまきなどの見られる場所である。そこは湯島四丁目の浅い谷をへだてて、神田明神のもりを望むような位置にある。

「捨叔父さん」

 こう愛子が呼んで、荷物と一緒に着いた岸本の傍を通り過ぎた。仁太の居る頃には車で学校通いをする程大切にされた娘も、今は豆腐を買いにらせられるという境涯にある。愛子は前垂れの下に味噌漉みそこしを隠して、可羞はずかしそうに駆けて行った。

 三輪から持って来た道具は新しい住居に似着かなかった。銅壺どうこの附いた長火鉢は中央まんなかの部屋の隅に据えられたが、この借屋で見ると可笑おかしいほど大きかった。とは言え、家内一同がその長火鉢の周囲まわりへ集まって、食事をしながら互いに顔を見合わせた時は、何となく自分等の巣らしいところへ移って来たように感ぜられた。快活な母親の笑い声は、急に際立って高く聞こえた。どうかすると狭い往来へ響き渡った。都会みやこ婦女おんなのような低い優しい声を田舎者いなかものに出せと言う方が無理だ、こう言って母親は笑っていたが、それでも出京の当時に比べると余程低く優しくなった分である。第一、近所迷惑だ。そこへ母親も気が付いて来た。

 不幸にも、民助はまだ帰ることが出来なかった。姉は夫の身の上を案じ煩って、時々茫然ぼんやりと考え込む。「姉さん、穴が明きますよ」とよく岸本が長火鉢のわきを撫でたものである。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)