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春:百二 (1/2)

「秋風蕭条しょうじょうの記。日清にっしんの戦争に世は武士もののふのものとなりぬ。市川学窓に古賢を友とし、岸本わずかに余喘よぜんを保ち、菅また悄然しょうぜん、ひとり足立の意気軒昂けんこうたるは奈何いかなるまぎれにや、風の便りに聞けば隣家となりの庭に野花やか一輪の咲きでしなりという」

 こんなことを菅が書いてから、一年ばかり過ぎた。

 明治二十八年の十一月に成った。支那しな俘虜ふりょを満載したガタ馬車が幾台となく東京の市街まちを通ったのも、最早二月程前のことである。その隣国の兵士等が馬車の窓から手を振って、帰郷の喜悦よろこびを示した時、こちらも同じように歓呼を揚げた群集は、今、平和を祝いながら歩いている。その年の地方の収穫は平作以上に予想される。本郷切通の坂を往来する人々の顔にも何となく喜悦の色がある。土の上には影が動いている。日は坂の上の空気と塵埃ほこりとを照らしている。勝手の道具や、柳行李やなぎごうりや、それから大きな風呂敷包ふろしきづつみなどを積み載せた荷車の後にいて、丁度上野の方から坂へかかった人力車くるまがある。荷車は右へとり左へとりしながら、本郷台へ向かって上って行った。人力車も徐々そろそろ随いて上った。車の上の人は万感こもごも胸に迫るという風で、人目もはばからず男泣きに泣いて、そばへ来て何か手付きをして見せたたちン坊のあるにも気が着かずにいた。

 この男が岸本である。彼は今、三輪を引き払って、湯島に見つけて置いた新しい住居の方へ移ろうとする途中である。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)