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春:十 (1/2)

 青木が発つ、市川が発つ、八月の上旬には岸本も送られて湖畔の宿を発つことに成った。もっとも、その時は菅と二人きりでは無かった。西の方からやって来た旧友の足立も一緒で、三人して箱根の新道を下った。

 元箱根を発つ時、岸本の懐中ふところには僅少わずかしか金が残っていなかった。他の友達はそれぞれ帰るべきところが有って帰って行くのに、彼ばかりは何処へ帰るという目的あても無い。もとより家を出てしまった彼である。今まで通り漂泊を続けるより外に、彼の取るべき道は見当たらなかった。何時いつが、そんなら、旅の終であるか――ということは、彼自身にすら答えられなかったのである。

 とにかく、彼は鎌倉まで行くつもりでいる。

 椿沢つばきざわの深い渓谷たにあいに添うて新道を下りた頃は、早川の水音が聞こえて来た。可懐なつかしい関東の方の青空は久し振りで岸本の眼に映った。

 昼すこし前頃、三人は塔ノ沢へ入った。千歳橋ちとせばしたもとにある温泉宿へ着いて、往来の方へ向いた二階の一室ひとまへ案内された。庭の池へ落ちるかけひの音は早川の水声と一緒に成って、涼しい雨を聞くような思いをさせる。山の上から降りて来て宿の浴衣ゆかた着更きがえた時は、三人ともに蘇生いきかえったような心地こころもちに成った。

 女中も若くて、可憐かわいらしかった。小田原の近在あたりから来て奉公している娘も、ここの湯水で肌を磨くうちには、自然と垢抜けがして来るとか。いずれもサッパリとした風俗なりをして、客扱いにも慣れてる。二人来て、茶を入れたり、あつらえの料理を運んだりした。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)