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春:一 (1/4)

「岸本君、七月二十二日に東海道の吉原よしわらまで来たまえ。その日を期して東西から富士のもとに会することとしよう。君の都合もあろうかと思うから為替で旅費送る」

 こういう意味の手紙が東京に居る友達ともだちから行ったので、いよいよ岸本も西の方の旅から帰って来るという報知しらせがあった。東京の友達はそこで新橋をつ。一行三人、青木、市川、すげ――岡見兄弟は都合があって加わらなかった。連中が東海道を下った頃は、明治二十六年の夏である。大分その日の汽車は込んだ。一行は疲れて吉原の宿についた。

 会合の場所は街道筋によくある普通の旅人宿はたごである。二階建ての離座敷はなれがあって富士はく見えた。三人が占領したのはその二階の一室で、離座敷の方には他に泊まり客が無い様子。時々顔を出す四十格好の家婦かみさんより外に放肆ほしいまま雑談ぞうだんを妨げるものが無かった。結句気楽な宿である。汚れた畳の上に寝転びながら、三人は、岸本の来るのを待っていた。

最早もう見えそうなものだなあ」

 と言って青木は身を起こした。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)