» 公開

上田秋成の晩年(6) (1/2)

 当時日本の医学界には、関東では望月三英もちづきさんえい、関西では吉益東洞よしますとうどう、というような名医が出て、共に古方こほうの復興を唱え、実技も大いにあらたまり、この両派の秀才が刀圭とうけいを司る要所要所へ配置されたが、一般にはまだ、行きわたらない。大阪辺の町医村医は口だけは聞き覚えた東洞が唱道の「万病一毒」というモツトーを喋舌しゃべるが、実技は在来の世間医だった。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻っていよいよ医術開業。そのときにこういうことを決心した。「医者はどうせ中年の俄仕込にわかじこみだから下手で人がよう用いまい。だから、足まめにして親切で売ることにしよう。しかし、いかに俗にちればとて、世間医のやる幇間ほうかん骨董こっとうの取り次ぎと、金や嫁の仲人なこうど口だけは利くまい」と決心した。

 足まめにやる方針は一草医秋成を流行はやらせて暮らしも豊かになった。医者をはじめて四年目に、家を買い、造作をし直して入るようになった。その時の費用十二かん目を払うことも、そう骨折らずに都合がついた。まずこの分なら見込みはついたと、せっせと働くうちに、自体が弱いからだなのでとうとう堪え切れず残念にも医者をやめなければならなくなり、またもとの田舎住居いなかずまいとはなった。其処そこがすなわち長柄川の閑居だった。

 妻のお玉にしても、どこに妻らしいたのしみがあったろうか。自分が遊び盛りの若いうちは運びの留守番、医者になって流行はやるうちは客の取り次ぎ、薬の調合、それからやっと家にいるようになると、病人になった夫の介抱だ。その上七十六まで永生きされた自分の養母を引き受けて面倒は見る。まるでお玉は自分の家へ女中に来たような女だった。自分も六十に手が届くようになり、田舎の閑居で退屈まぎれに、同棲どうせい三十年近くで、はじめて妻という女を見直して見るのであった。それも、左の眼は悪くなってしまっていたから、右の眼一つであった。このときお玉はもう五十一歳だった。もとから取り立てるほどのきりょうもなかったが、それが白髪しらがだらけになると、ただありきたりの老婆ろうばだった。一体が、そういうふうな女でもあるし、京都生まれで、辛抱強いのに生まれの性という考えが、こっちの頭にあるものだから、ただこういう風に苦労をするようにできて来た女が老婆になっても、根よくことこと働いて居る家具のようで、その点が、めずらしかったのだ。この女に、女らしさなどあるとも思わないし、見つけ出すのはいや味な気がして、妻が枯れ木のような老婆になって行くのを、かえって珍重する気持ちだった。だから自分が五十九歳、妻が五十一歳の寛政四年にまず妻の母親が死に、すぐ自分の養母が死にして、何だか気合い抜けしたような形になった妻のお玉が、髪をおろして尼のていになりいと申し出たときに、早速それを許したのだった。女臭いところの嫌いな自分の傍にいる女が一層枯れ木の姿になるのはさっぱりするからだった。そのとき妻は、尼らしい名をつけてれと頼むのですこし思案して『瑚璉これん』とつけてやった。どういうわけだと妻が訊くから、これこれと呼ぶのに便利がいいからだと冗談半分に教えてやると、あんまり手軽すぎると不満そうだったが、強いてことわりもせず、やがてその名のつもりになっていた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。