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鶴は病みき(2) (1/7)

 一週間ばかり前のひるすぎ、麻川氏と私の話は「女性美。」というような方へ触れて行った。麻川氏「女の本当の美人なんてものは、男と同じように中々少ないですね。しかし、男が、ふと或る女を想いつめ、その女にいろいろな空想や希望を積み重ねて行くとその女が絶世の美人に見えるようになって来ますね。そして、その陶酔をましたくないと思いますね。その方が男にとって幸福ですからね。女から紅や、白粉おしろいを拭い取って、素顔を見るなんか私にはとても出来ない事です。だが、それだって好いじゃないですか。それだって。」氏の言葉の調子は、いくらかずつ私をきめつけてかかる。私は「そうですとも。」と相槌あいづちを打った。すると麻川氏は「ほんとうにそう、思うんですか。」とますます私を極め付ける。私「ええ。」麻川氏「本当に......じゃあなぜあなたは......なぜ......。」「何ですか」と私。

 麻川氏は、それきり口をつぐんでしまった。眼が薄ぐもりの河の底のように光り、口辺に皮肉な微笑が浮かんだ。やがて氏は眼を斜視にして藤棚の一方を見詰めていたが突然立ち上がり手を延ばして藤の葉を二三枚むしり取り、元のところへ座った。が、いらいらとしていくらか気息をみ、「僕が、そういう意味でですね、僕がある女を美人と認めるとしても異議無しの筈ですがねあなたは。」私「ある女って誰ですか。」私も咄嗟とっさの場合、きっとなった。麻川氏は必死なずるさで「ふふふふ。」と笑った。ふと、私はX夫人の事を思いついた。そして、巧みな化粧で変貌したX夫人を先年某料亭で見て変貌以前を知っている私が眼前のX夫人の美に見れながら麻川氏と一緒に単純に賛嘆出来なかった事、その気持ちでその時の麻川氏を批判した随筆を或る雑誌に絶対に氏やX夫人の名前を明記しないで書いたのが、やはり麻川氏は読んで感づき気持ちに含んでいたのだと判った。「私は、自分の美人観はかなりはっきり持っていますけれどひと様の好悪はどうでも好いんです。」私はこう言ってなぜか悲しくなってうつ向いてしまった。何というしつこい氏の神経だ。正午前から、あんなに女中に言伝ことづて、お駒婆さんに菓子を持たせ、部屋へ話しに来るように私を呼び立てたのは、この事を言うためだったのか、もうこのくらいつき合えば、この事を言い出しても好いと、見はからっての氏の招待だったか......その二三日前もこんな事があった。私が海岸から扇ヶ谷へ向かう道で非常な馬上美人に遇ったと帰って来て氏に話した。すると氏は妙な冷笑を浮かべて「非常な美人? ははあ、あなたに美人の定見がありますか。」私「でも、私は美人と思ったのですもの、定見とか何とか問題無しに。」麻川氏「その女が馬上にいたんで美人に見えたんでしょう。」私にもぐっと来る気持ちが起きたが表面は素直に「馬上だからなおスタイルが颯爽さっそうとしてたんでもありましょうがね、私の言うのは顔なんですの、素晴らしく均整のとれてる顔が、馬上でほっとあからんでいましたの。」「ははあ。」と麻川氏はどうも遺憾で堪らない様子だ。「由来均整のとれてる顔には莫迦が多いですな。」

 私はむっとして傍を向いた。何故私が扇ヶ谷の道路で観た馬上の女性を麻川氏の前で美人と言ったのは悪いのか。そのくせ、麻川氏自身はほとんど絶えず色々な女性の美醜を評価し続けていると言っても好いくらいだのになぜ私がたまたま扇ヶ谷の馬上美人を氏の前で褒めては悪いのか。事実私としては白日の下で近来あれ程高貴で美麗な顔立ちを見たことがないのだ。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。