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豆腐買い(1) (1/3)

 おもて門の潜戸くぐりどを勇んで開けた。不意に面とむかった日本の道路の地面が加奈子の永年踏みれた西洋道路の石の碁盤ごばん面の継ぎ目のあるのとは違った、いかにも日本の東京の山の手の地面らしく、欠けた小石を二つ三つ上にのせて、風の裾に吹かれている。失礼! と言いたいほど加奈子には土が珍しく踏むのがもったいない。加奈子の靴さきが地面の皮膚の下に静脈の通っていなそうな所を選んでさぎのように、つつましく踏み立つ。加奈子はすべりかけたショールを胸の辺で右手につかみ止め、合あわせ襟になった花とつるの模様の間から手とう穿めていない丸い左の手を出して陽に当てて見た。年中天候のどんよりしていた西洋と比べて日光もまたすくい上げたいほど、加奈子に珍しくもったいない。

 加奈子は夜おそく日本へ帰った。翌日から三日ばかり家の中にこもって片付けものらしいことをして四日目に始めて出て見る日本の外の景色が出発四年前の親しみも厚みも、まだ心に取り戻してはいなかった。ただひらたく珍しいばかりだ。が少し歩いているうちに永年居慣れた西洋の街や外景と何もかもが比較される。

 隣家との境の醜部露出狂のようなどぶに魚のうろこがひとつかみ、ただれた泥と水との間に捨てられていた。たまってぼろ布のように浮く塵芥ちりあくたに抵抗しながら鍋膏薬なべこうやくの使いからしが流されて来た。ロンドンの六片均一店シキスペンスストーアで売っている鍋膏薬は厚くて重たいほどだった。世界的不況時代にせめてロンドンでの鉄の贅沢ぜいたくだった。それを器用に薄く、今流れて来た日本のものは要領を得ている。外国の文化を何でも真似て採り込むのに日本は早い。鍋膏薬の使いからしは鱗の山の根にぶつかった。鱗の崖が崩れて水に滑り落ちた幾片は小紋ぢらしのように流れて行く。ちち色の水をとおして射る鱗のひらめきに加奈子の眼は刺激されて溝と眼との幅、一メートル八インチ半程の日本ではじめての「距離」を感じる。

 加奈子はようやく距離を感じ出した眼をあげて前町をみると両側の屋並みが低くて末の方は空の裾にもぐり込もうとしている。町の何もかにもが低い。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。