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敵(3) (1/3)

 応接間の方より賑やかなる足音、やがてそれが書斎の扉の前の廊下を過ぎ、客を玄関に送りたるたか子登場。


たか子。(晴れ晴れしき顔よろこびの興奮のために薄紅く上気し居る。)あなた(いそいそと重彦の傍らへ行き。)あなた。(重彦の険悪なる顔を見て一寸ちょっと驚く、が、強いてそれを慰めようとして。)あなた。(重彦の体を押して椅子に掛けさせ、自分も向かいに掛けて。)ね、あなた。(わざと少しはしゃいで見せて。)素晴らしいのですわ。あなた。

重彦。............。

たか子。(少しすねるように、しかしますます重彦の気を引き立てる様に。)そんなにおむずかってばかりいらっしゃらないでお聞き遊ばせよ。

重彦。............。

たか子。(どうでも重彦の機嫌を直し得るという勇気と自信ある口調にて。)あのね、あなた。国立劇場がね、開場第一に上演する脚本の撰定せんていを初めたんですって、そして芸園社へってある私の「明暗」を文芸部の主任の渡辺さんが見に行ってこれこそ一番先頭に上演すべき名脚本だ、是非国立劇場の台本にして欲しいと申し込んだそうですの、芸園社ではもちろん異論はなし、結局、私の承諾を経ることになったのですって。やがて芸園社からもそれに就いて使いが来るでしょうよ。とりあえず国立劇場の方へは承諾いたしましたわ。あなたに御相談してからと思いましたが、劇作家として国立劇場創立第一に上演されるのはこの上ない名誉としなければならないのですもの、御異存のあるはずはないと思いましたから......ね、あなた、よろしゅう御座いますわ、ね。

重彦。(わなわなとふるえつつ突き立ち上がり。)敵! いよいよお前は俺の敵だ。

たか子。(驚き惑いつつ。)ま、何を仰るんです。あなたの敵は、みんな私が引きうけて立派に凱歌がいかを挙げているでは御座いませんか。

重彦。敵は......敵はお前だ......お前よりほか、俺の敵は一人も......一人も......この世の中にありはし無いのだ。

たか子。(あきれて立ち上がる、小間。)あなたは......あなたどうかしていらっしゃいます。

重彦。いや、決して俺はどうもしない。俺ははっきりしている、そして俺は、俺の憎むべき恐るべき敵の前に立っているのを、最も明瞭に意識しているのだ。俺の全生命をみつくした女の前に......。

たか子。(あわてて重彦の言葉を遮りつつ。)私がその敵だと仰るのですか(強き音声にて。)私がその憎むべき恐るべき......(声の調子ぐっと落ちる。)そしてあなたの全生命を喰みつくした女が(涙に声をふるわせながら。)それがこの私だと仰るので御座いますか。

重彦。(たか子の激せるに圧されてかえって冷静になり。)そうだ。(手にて制したか子を座らせ、自身も椅子に就く。)お前よりほかこの世の中に俺の敵は一人も無いのだ。

たか子。(涙を拭い興奮を抑えつつ。)でも、今が今まで、瀬川乙也やジャアナリズムやあなたの背の観衆を敵だと仰っていらしったでは御座いませんか。

重彦。あれは惰勢だ。長いあいだそう思い込み、そう言い続けて来た惰勢だ。

たか子。ではいつ頃から私を敵だとお思いなるようになりましたの。

重彦。よほど前からだ、だが、かなりはっきり意識し出しだのは半月ほどまえからだ。そして今日、今、いよいよそれが判然とした。

たか子。仰って下さいまし、その理由を、仰って下さいまし。

重彦。うむ。(沈思。小間。)

たか子。あなた、あなた、なぜ仰って下さらないのです。あなたは私をいじめようとして、理由にならない理由を無理に考え出そうとしていらっしゃるのではありませんか。

重彦。馬鹿なことを言いなさい。

たか子。でも、私はあなたから敵などと言われる覚えは御座いません。私は......私は......どれほどあなたを愛し通して参りましたか、どれほどあなたの御心どおりに必死な勉強をして参りましたか。

重彦。それが......それが、いけなかったのだ。

たか子。なぜそれがいけなかったので御座います。あなだだって、あんなにはげしく私を愛しあんなに熱心に私を仕込んで下さいました。

重彦。そうだ(悲痛なる調子にて。)俺のお前へのはげしい愛。それが俺の生命力をお前へ放射する導火線だったのだ。それを飽きるまで誘引するために俺への愛をお前は用意していたのだ。

たか子。(不可解なる面持ち。しかし熱心に聞きいる。)

重彦。五年の昔、俺の才能、思想、栄誉は、俺の心身を飽満の絶頂に立たせた。俺はほとんど有頂天だった。が、その中にも俺は、多くの先輩、同輩、後輩の阿諛あゆに交じる恐ろしい嫉妬をはっきり意識していた。俺はひそかに厳密な防御と、鋭細な警戒を怠らなかった。俺はそれがために随分狡智こうちを弄した、手段を行った。俺の立場はいよいよ堅固に、俺の勇気が、ますますかがやかしい俺の原作の原動力になるのだった。.........そこへ美しい内弟子として現れたのはお前だった。あらゆる人間嫉妬や潜入を許さなかった外山重彦の城廓じょうかくも自然の絶対権力は防げなかったのだ。俺の充実しきった幸福に自然の嫉妬が潜入したのだ。お前はその自然の企図が俺に送った恐ろしい吸血鬼だ。自然はまずお前の女性であることによって俺をくつろがせお前の美貌をもって俺を魅しお前のまれな才気をもって私を釣ったのだ。――やがてお前の約婚の人からお前を奪ってまで、俺はお前を俺の妻とし天晴あっぱれ前代不出な女流劇作家として俺と世に並び立たせ外山の居城をいやがうえにも世上に輝き渡らせようとした。どこまでも皮肉な自然が、俺のお前に対するはげしい愛欲に手伝わせて飽くことなき俺の名誉心をあおり立てた。俺はまんまと自然から目隠しされそしてその命ずる方へやすやすと足をふみ出して仕舞ったのだ。それからの俺がどうだったかはお前もよく知るはずだ。俺は俺を神のごとく信頼していた多くの弟子逹を指導する俺の熱意をたちまちお前の一身に集中されてしまった。俺はまた忙しい俺の創作の時間を割いてもお前のために艮書をりお前の構想の是非を定めるには、俺のインスピレーションを追いやって夜どおしお前に付いていてやったこともある。俺はお前を外形の方でもまた出来るだけ引き立てようとした。俺は俺に来るだけの収入をかき集めてお前をかざるぜいたくな衣装の色彩を考え高価な香料をたずね回った。そして、お前はわずか二年足らずで、天晴れ当代随一の才色兼備の女流劇作家となり終せたのだ。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。