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敵(2) (1/1)

 とめ、登場。


とめ。(ただならぬ夫妻のけはいに少しためらいつつ。)あの奥様にお客様で御座います。(名刺をたか子に渡す。)

たか子。(名刺を見て。)おや、国立劇場の文芸部から......(重彦をかえり見て。)国立劇場から何でしょうね、あなた。

重彦。何の用か俺の知ったことかお前のことはお前が考えろ。

たか子。まあ......(直ぐ思いなほし髪のほつれを直し帯にさわり衣紋えもんを引きしめてからとめに向かい。)さ、とめ、お客様を応接間へお通ししよう。


 たか子。重彦に軽く一礼して、とめと共に室を出る。扉の外に見ゆる廊下をたか子は右へ曲がりて応接間の方へ、とめは反対なる玄関の方へ。


とめ。(陰の声にて。)さあ、どうぞこちらへ。


 客を先立てて廊下を通り行くとめが、書斎の扉の半開なるをあわてて閉めんとする時すでに室の前を通り抜けたる一人の男客の姿、それをみとめたる室内の重彦は突然椅子を蹴って立ち上がる。


重彦。(独白。)うむ、うむ。彼奴は確かに長峰だぞ、うむ......四五年前には、小僧っ子で、改劇社から、弁当持ちで俺の原稿を催促に来た長峰だぞ、ううむ......今月初め国立劇場が竣工しゅんこうして文芸部を置いたとは聞いたが、まさか、あの長峰の小僧っ子が加入しているとは知らなかった。(重彦腕を組み突っ立ちたるまま間。応接間の方より賑やかなる扉の開閉。鄭重ていちょうなる主客の応酬するけはい聞こえ来る重彦その方をにらみて。)うっ! 畜生、長峰の奴、何をたか子におべっかつかっているんだ。生白い使い狐奴! 今ここを通る時、彼奴は確かに俺がここにいるのを見たのだ、それだのに、彼奴はあわてて顔をそむけて行って仕舞った。以前は、二十日鼠はつかねずみの様に俺のまわりをちょろちょろ付きまとった奴が、俺には知らん顔して、たか子へ使い狐にやって来よった。しかも彼奴のちらと俺を見た眼付と言ったら......妙に、俺を侮蔑するような憐む様な「もう君には用は無い。」と言った様な冷淡な......うむ、何でもよい、畜生!(声の調子虚勢となり。)俺は、決して貴様なんかに侮蔑されない、憐れまれたりしてたまるもんか、御無用はこっちからだぞ。(間。重彦少し疲れしものの如く椅子に掛けテーブルに片肘を突く。間。突然応接間にて、非常に華やかに満足気なるたか子の笑声起こる。重彦、撃たれし如く衝動的に立ち上がり、刺す如き鋭き眼光をもって暫時その方を睨む。やがて、悲哀と苦痛、恨みと嘆き、怒りと絶望との同時に交錯せる複雑にして凄惨なる表情をもて重彦の顔面おおわる。はじめ細くしてようやく荒き戦慄唇より、双手はては全身に及ぶ。引きしぼらるる如き声音にて。)ああたか子。たか子......。(追い追いおびゆる如き弱々しき愛憐あいれんの調子となり。)たか子......ああたか子。(またひとしきりたか子の笑声聞こゆ。重彦たちまち激越の頂に逹す。怒声にて)おおたか子何という憎々しい勝利の声だ!(両手に顔を埋めてテーブルの上に俯伏ふふくす。長き間。)


 応接間の方よりたか子の笑声、前より何倍か増えりて高く晴れやかに聞こえ来る。重彦、はっと頭を上ぐ。


重彦。(しばらく思い入れありてのち、決然たる、しかしおもむろに自身に言い聞かす如きかなり冷静なる口調にて言い出す。)俺はもう愚図愚図していてはいけない。いつまでも弱っていてはならない。もっと強くならなければ......早く解決をつけなければ......敵(の一語を最も悲痛に言いて。)を目前に置いて一刻でも余計愚図愚図しているのは一刻も長く、自分で自分に唾し、自分を足蹴にしていると同然だ。もう......猶予はなら無い......。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。