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敵(1) (1/3)

人物 外山重彦 創作家。

その妻たか子 女流劇作家。

津田 門弟。

とめ 下婢。

所 東京山の手。

時 現代。


舞台。広き洋風の一室。真ん中を線色のカーテンにて仕切り二分せる外山夫妻の共同書斎なり。椅子、テーブル、本箱、花瓶、油画の額等適宜なる配置双方ともほぼ同じなれど、向かって右なるたか子の側のみどことなく活気ありにぎわしき様見ゆ。背後に窓一面硝子ガラスを透かして庭の夏樹立青し。左手重彦の側、背後に扉一つ。(この舞台唯一の出入り口)廊下に通ず。門弟津田(痩せて神経質らしけれど実直気なる青年二十四五歳位。)下婢かひとめ、(醜けれど敏感らし、二十前後、朝の掃除をなし居る。)


津田。(垂れはくを一方に引きしぼりながら)おいおい、君、おとめさん、ヴイナスの像にそう本の塵を浴せちゃあいけない。

とめ。(たか子の側の本立てへかけ居たる毛ばたきの手を留めて振り返り。)はいはい、昨日奥様がこんなところへこれをお置き変えになったもんだから......ですがあなたはこの頃、きっと毎朝一つか二つ私を叱る癖がつきましたね。

津田。はは、はは。そういうわけでも無いがね。悪くとらないでくれたまえ。

とめ。いいえ悪くなんかとるものですか。あなたも、この頃の様に始終先生からいためられ通しでは、つい、むしゃくしゃもなさるはずですわ。ね。

津田。ううん。(津田の表情、にわかにくもり、力なくそこの椅子へ腰を下ろす。とめはたきをかい込みて少しく津田へ近づく。)

とめ。(こころもち声をひそめて。)やっぱり先生のお作りになったものが、昔の様に流行はやらなければ、先生のお機嫌はいつまでも直らないでしょうかね。

津田。(やや驚きてとめを見る。)君、おとめさん、誰が君にそんなことを言った。

とめ。誰もそんなことを、わざわざ私に言って聞かせはしませんわ。でも、十五から足かけ五年もいて御主人の気持ちが大がいみ込めないってこともありませんわ。

津田。うん、それはそうだ。

とめ。それにこの間も新劇座の君塚さんと芸園社の近藤さんが応接間へ落ち合って――一時間ばかり待っていましたの。皆さんお留守で家には私一人だったので、あの方たち構わずに談していられましたわ。「こちらの先生も、もうすっかり駄目ですな。それに引きかえ御夫人の名声はなんと豪勢なものですなあ。」ってね。あの人達もその時やっぱり奥様の方の御用で来たのですわ。

津田。うむ。全てがみんな先生と奥様と反対になってしまった。僕も始めは先生の弟子として置いて頂いたのだけれど、この頃では忙しい奥様の筆記や、校正や、劇場の使いや新聞雑誌社への応接で先生の御用は何にも足せない、いや僕の足す用は、もう先生に無くなったんだ。

とめ。来る人も来る人もみんな先生を名指して来たのに、この頃では、それがみんな奥様のお客様に変わってしまった。いつ頃からこんな具合になりましたかねえ、津田さん。

津田。三年ばかり前からだ。

とめ。そうそう、私が来てから二年位して始まったことですねえ。

津田。(少し考えて独白的に。)君が来てから五年と、僕もあの年の秋に来たんだったけなあ。奥様は僕等より一年ばかり前にこの家に来られたんだ。(小間。ますます独白的となり。)先生もあの時分は得意だった。新劇先駆者として芸術的名声のクライマックスに立たれると同時に奥様との恋愛結婚は、あんなに豪奢ごうしゃに世間から謳歌おうかされたし......。

とめ。(はばかれる声にて。)けど津田さん。私ははじめのうち、奥様が今の様に、偉く美しくおなりになる方とは決して思えませんでしたよ。(ますます憚れる声にて。)ほんの田舎からぽっと出の内弟子さんだったのですってね。私の前の女中のお松さんが言いましたよ。

津田。(優しく制す)しっ。だが、奥様は、あの通り利巧者で勉強家だ。そして先生が、精一ぱい仕込まれたんだ。

とめ。そうですとも、それはそうですとも、先生は奥様をお仕込みになりながら夜どおし起きていらしってお部屋のストーブもいてお上げになれば、芝居から入ったばかりのお金を一度に奥様の会へお出掛のお仕度料に使ってお仕舞しまいにもなりますし、ね、それから髪の結い方や、時々はまたお白粉刷毛はけで奥様のお顔を作ったりなさったこともありましたわ。

津田。(とめの言葉に引きこまれて。)形の上だけでもまだいくらもある。感じのい原稿紙が見付かったと言ってはまず奥様に、万年筆も先生が使いならして書きよくなってから奥様にという具合、(椅子より立ち上がり室内を歩きながら独白的に)その上精神的には、内弟子の僕を初め以前から多勢の男子の弟子を指導する精力をすっかり奥様に集めて仕舞われた。(とめの存在を忘れしごとくやや激して。)先生へ対して、愛敬の念を失った多勢の弟子達が言い合わせた様に先生から遠ざかって行ったのは、先生の名辞が世間的に失墜する前兆のようなものだった。そして先生に残されたものは、恐ろしい先生自身の失意と、輝かしい名声につつまれた奥様と、この意気地なしの僕――うむそうだ、意気地無しでなくて僕は何だ。まとまった作一つ世に出せないで、ただ人間的な因縁愛ばかりに引かれて、この光と影とが変に交錯した矛盾の多い家庭の使用人となっているんだ。五年昔の先生の額の栄光を慕って来た僕が、今は洞穴の様な先生の絶望の口から、怒罵と叱声ばかりを聞いて暮らさなければならなくなったんだ。(ふっととめを見て口をつぐむ。)

とめ。本のそろえ方が悪いの、返事の仕方が悪いのってしょっちゅう先生はあなたを......。

津田。君だって、紅茶の加減が悪いの靴の磨きが悪いのって。なあ。しかし、君も感心に勤めている。よくよく辛抱のよい女だなあ。

とめ。でも先生は本当はよい方なんですもの。来たての頃よくして下さったことを思えば今のはみんなお仕事が駄目になったむしゃくしゃからですからね。

津田。そうだとも、本当は非常にお気の毒なんだ。だから僕だって我慢してるんだ。(小間、椅子にかける。)しかし、こんな話を奥様に聞かれたら大変だよ。奥様は御自分が褒められるのが嬉しいと同じ位いにこの頃の先生のことを言われるが大嫌いなんだ。先生の悪口が書いてある新聞や雑誌は決して僕にだって見せないからな。

とめ。まったく奥様は先生思いでいらっしゃるのね。それで先生も奥様にばかりはあんなにおとなしく機嫌よくなさるのでしょうね。

津田。なにそればかりではない。先生も世間が奥様を信仰すると同じ様に奥様をすっかり尊敬していられるのだ。

とめ。(テーブルに片手を突き、少し考えて。)でもね、津田さん、近頃先生は、奥様にも少し変におなりになったようですわ。あなたお気が付かない。

津田。うん、そう言えば......僕もね、うすうすそれに気付いてはいるんだがね。

とめ。やっぱり先生が去年あたりから新しくお始めになった哲学とかいう研究のむずかしいところででもこじれてお仕舞いになったからでしょうかねえ。

津田。(とめを見、微笑して)ははあ、こういう家に長くいるので、君もなかなか分かるようになったな。(静思の形。小間。)僕にも分からないんだ、(ちょっと首を振り。)なに哲学のせいじゃない。(独白的になり。)今まで先生が哲学的考察に行き詰まって煩悶していられたことは幾度あったかしれない。だがそういう時こそなお奥様の慰安を必要としていられたのだ。が、今度は違う、今度は単に奥様に対して......漠然たる回避かな、憎悪かな......。奥様にもその原因が分からなくて、ただ困っていらっしゃるばかりの様だ......いや、いや、先生自身にもはっきりその理由が突きとめられないものかも知れない。

とめ。何しろ変なのですよ。昨夜もね。先生が外から帰っていらしって、奥様はどこにいらっしゃるかとせっかちにお聞きになるのよ。そのくせ奥様が、二階の寝室から降りていらっしゃると、気むずかしい顔して一言もおっしゃらず、御自分一人でこのお書斎へ這入って、びしゃっと扉を閉めてお仕舞いになりましたよ。今朝もね、いつもは先生がきまって奥様をお誘いになる朝の散歩に、やっと奥様がなだめ、すかして先生をお連れになった様ですわ。

津田。(突然立ち上がりて。)それはそれと、もう散歩からお帰りになるだろう。

とめ。(急いでハタキを持ち直し。)そう、そう。本当に長話してしまいましたね。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。