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荘子(4) (1/2)

 また一ヶ月程たった。初涼のよく晴れた日である。あたたかい日向ひなたの沢山ある櫟社のあたりへ一両の旅車が現れ、そして荘子の家の門前に止まった。車のなかから現れたのは供の者に大きな土産包みを持たせた支離遜だった。低い土塀の際の葉の枯れた牡丹に並んで短いらんの葉が生々と朝の露霜をうけた名残のぬれ色を日陰に二株三株見せていた。もう正午にも近かろう時刻だったが荘子の家のなかはしんと静まっていた。遜は自分のあとからつかつか門内に入って来た供の者を一寸手で制して、なおよく家の中のけはいをうかがって居ると、裏庭に通じる潜り扉が開いて荘子の妻の田氏が手はくで濡れ手を拭きながら出て来た。

「おや誰ぞお人がと思いましたら遜様で御座いましたか、さあ、どうぞ」

 遜は入り口の土間の木卓の前へ招ぜられた。

「奥様は何か水仕事でもなさって居らっしゃいましたか、お加減がお悪いとか伺いましたのに」

「いえ、大したことも御座いませんのでお天気を幸い、洗濯ものをいたして居りました」

「奥様が洗濯までなさるような御不自由なお暮らしにおなりなさいましたか.........いやいや長くはそうおさせ申して置きません、遠からずくつきような手助けのはしためをお傍におつけいたすようお取りはからい申しましょう」

「いえ、どういたしまして、加減が悪いと申して大したことも御座いません、わずかなすすぎ洗たく位、この頃の夫のことを思いますれば却ってこうした私の暮らしが似合ってよろしゅう御座います」

「そう仰れば今日は荘先生には如何なされましたな」

「ほ、ほ、ほ、まだお気づきになりませぬか、あれ、あの裏庭の方から聞こえる斧の音.........あれは夫が薪割まきわりをいたして居る音で御座います」

「なに荘先生が薪割り?.........それはまた何とした物好きなことを始められましたことです」

「いつぞや洛邑から帰りまして.........そう申せばあの折は、大層なおもてなしを頂きまして有り難う存じました.........あれから暫くの間考え込んで居りましたがふと思いついてあのようなことを始めましてから夫の日々が追い追い晴れやかになりまして、あのものぐさがはだしで庭の草取りはする、肥料みから薪割りまで.........とりわけ薪割りは大好きだと申しまして.........無心で打ち降す斧が調子よく枯れた木体をからっと割る時の気持ちのさは無いなど申しまして」

「昼間がそれで、読書や書きものなど夜にでもなさるとしたら.........お疲れでも出なければ宜いがな」

 田氏は少しためらった後思い切って言った。

「いくら夫をおひいきのあなた様にでもこのようなこと申し難いので御座いますが.........実は夫はこの頃読書も書きものもほとんど致さなくなりました。先夜なども、今まで読んで居た本が却って目ざわりだと言って、さっさと片づけにかかりましてその代わりの夜なべ仕事に近所の百姓達を呼びまして豚飼いの相談を始めました。豚を飼って、ことによったら豚小屋へ寝る夜もあるか知れないなど申し、豚の種類の調べや豚小屋の設計まで始め、自分で板を割ったり屋根きを手伝ったり.........」

「うむ」

 支離遜はうなるように言って田氏が汲んで出したなりでぬるくなった茶をすすった。田氏は控え目ながら、今の自分達にとって思うことを打ち明けられる人とてはこの人よりほかに無い遜にともかく聞くだけは聞いてもらいたく、

「わたくしがある夜、おそるおそるあなたはもう、『道』の研究はおやめになってこの里の村夫子になってお仕舞いになりますのか、と尋ねましたら、夫がいくらか勇んで申しますには、その『道』がそろそろ見え初めて来たよという返答を申しますでは御座いませんか。わたくしがすこしあきれて、へえ、と思わず顔を見守りますと『道』はどこにでもありそうだ。『道』の無いところはないのだ。『道』は螻蟻ろうぎにもある。稊稗ていはいにもある。瓦甓がへきにもある。屎尿しにょうにもある。と仕舞いにはごろりと身を横たえて俺はこうして居ても『無為自然の道』を歩いて居るのだと申すようなわけで御座います」

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。