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荘子(3) (1/2)

 その後一ヶ月ばかりして荘子は妻の熱心なすすめ通り兼ねて沙汰して置いた支離遜からの迎えもあっていよいよ洛邑へ向けて旅立った。

 秋も末近いのでさすがに派手な洛邑の都にも一かわさびがかかっていた。さしも天下に覇を称えられていた周室はすっかり衰えて形式だけの存在になったが、その都である洛邑はやっぱり長い間の繁盛の惰性もあり地理的に西寄りではあるが当時の支那の中心に位し諸国交通の衝路に当たりつつ歌舞騒宴の間に説客策士の往来が行われ諸侯の謀臣と秘議密謀するの便利な場所であった。

 荘子が遜に連れられ洛邑の麗姫の館に来たのは夕暮れを過ぎて居た。二人は中庭を取り囲むたくさんの部屋の一つに通された。星の明るい夜で満天に小さい光芒こうぼうが手を連ねていた。庭の木立は巧みに配置されていて庭を通して互いの部屋は見透さぬようになっていた。窓々には灯がともり柳の糸が蕭条しょうじょうと冷雨のように垂れ注いでいた。

 二人が侍女を対手あいてに酒をみ出しているところへ「蠅翼ようよくの芸人」が入って来た。半身から上が裸体で筋肉を自慢に見せて居る壮漢が薄手のおのを提げて来た。あとから美しく着飾った少女が鼻のさきにちょんぼり白土を塗って入って来た。その白土の薄さは支那流の形容でいえばはえの翼ほどだった。少女は客の前へ来てその白土に触れさせないようにその薄さだけを見せて置いて床へ仰向けに大の字なりに寝た。壮漢は客に一礼して少女の側に突っ立った。斧が二三度大きく環を描いて宙に鳴った。はっという掛け声と共に少女の鼻端の白土は飛び壁に当たってかちりと床に落ちた。少女はすぐさま起き上がって嬌然と笑った。こんもり白い鼻は斧の危険などは知らなかったように穏かだった。壮漢はその鼻の上を掌ででる形をして「大事な鼻。大事な鼻」と言った。遜も侍女たちも声を挙げて笑った。戦国の世には宴席にもこういう殺気を帯びた芸が座興を添えた。

 目ばたきもせず芸人の動作に見入っていた荘子はつくづく感嘆していた。

「これには何か、こつがあるのかね」

 壮漢は躊躇ちゅうちょなく答えた。

「こつは却って、この相手の娘にあるんです。この娘は生まれついてから刃ものの怖ろしいことを知らないんです。斧に向かっても平気でいます。それでわたくしはやすやす斧をふるえるのです」

 荘子は「無心の効能」に思い入りながら少女を顧みた。少女は侍女の一人から半塊の柘榴ざくろをもらって種子を盆の上に吐いていた。それを食べ終ると壮漢に伴われ次の部屋へ廻りに出て行った。

 薫る香台を先に立てて麗姫が入って来た。部屋の中は急に明るくなった。彼女はその美を誰にも見やすくするように燭の近くに座を占めた。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。