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荘子(2) (1/2)

 荘子は心に二つの石を投げられて家に帰って来た。蘇秦も張儀も共に修学時代彼と一緒に洛邑に放浪していた仲間であった。二人の仲のよいことは仲間でも評判だった。それがいま、いかに戦国のらいとは言え敵と味方に分かれてはかりごとの裏をかき合って居るのだとは......蘇秦の豪傑肌な赤ら顔と張儀の神経質な青白い顔とが並び合って落日を浴びながら洛邑の厚い城壁に影をうつして遊山ゆさんから帰って来た昔の姿がいまでも荘子の眼に残って居る。今、廟堂びょうどうで天下を争って居る二人は全く違った二人に思えた。このことはすでに荘子を虫食むしばんで来た現実回避の傾向に一層深く思いみた。いやな世の中だ。ただただいやな世の中だ、と思えた。

 しかし麗姫の事に係わって来ると、荘子のこころは自然と緊張して来る。彼は隠遁いんとん生活の前、洛邑にんで居た頃度々(時には妻の田氏とも一緒に)宴席やその他の場所で彼女に会ったことがある。生一本で我がままでいつも明鏡を張りつめたような気持ちで力一ぱい精一ぱいに生活して行ってちりの毛程の迷いも無い。人間がその様に生きられるならば哲学とか思想とかいうものもえて必要としないだろう。時々思い出して切なくなる荘子にそう思わせる麗姫はもと秦の辺防をつかさどる将軍の一人娘であった。戦国の世によくある慣らいで父将軍はちょっとした落ち度をたてに政敵から讒言ざんげんを構えられ秦王のちゅうを受けた。母と残された麗姫はこのときまだこどもであった。天の成せる麗質はつぼみのままで外へ匂い透り行く末希代の名花に咲き誇るだろうと人々に予感を与えている噂を秦王に聞かせるものがあった。で、間もなく母にも死にわかれた麗姫は引き取られ后宮こうきゅうに入れて育てられた。いずれ王の第二の夫人にも取り立てられる有力な寵姫ちょうきになるだろうと思われているうち、この王が没し麗姫は重臣達の謀らいで遠くの洛邑の都に遊び女として遣られた。当時洛邑の遊び女には妲妃だっきほうじ、西王母、というようなむかし有名な嬌婦きょうふや伝説中の仙女の名前を名乗っている評判のものもあった。客には士太夫始め百乗千乗の王侯さえ迎え堂々たる邸館に住み数十人の奴婢ぬひを貯え女貴族のようなくらしをしていた。この中に入った麗姫が努めずしてたちまちその三人を抜いて仕舞ったというのには、何か彼女に他と異なった技巧でも備わって居たのかと言うに、却ってそれは反対であるとも言える。彼女は我が儘で勝手放題気にいらなければ貴顕の前で足を揚げ、低卓の鉢の白牡丹ぼたんをその三日月のような金靴の爪先で蹴り上げもした。興が起これば客の所望を待たないで自らはやしを呼んで立って舞った。悲しみが来れば彼女は王侯の前でも声を挙げてわあ、わあ泣いた。涙で描いた眼くまの紅が頬にしたたれ落ち顎に流れてもかまわなかった。それから彼女は突然誰の前でも動かなくなり暫く恍惚こうこつ状態に陥ることがある。何処どこを見るともない眼を前方に向け少しくねらす体に腕をしなやかに添えてそのままの形を暫く保つ――そなたは何を見て何を考えるのかと問う者があれば、わたくしは母のことを始め一寸ちょっと想い出します。父がざんせられた後の母は計られない世が身にしみて空を行く渡り鳥の行く末さえ案じながら見送りました。でも、その苦労性な母を思ってわたくしは、そんな苦労は、いや、いや、わたくしはわたくしの有りのまま、性のままこの世のなかを送りましょう、と直ぐ思い直すとそれはそれはよい気もちになり恍惚として仕舞います――、と彼女はあでやかに笑うのであった。その申し訳はうそかまことかともかく麗姫のその状態を人々は「麗姫の神遊」と呼んで居る。そのとき薄皮の青白い皮膚にうす桃色の肉が水銀のようにとろりと重たく詰まった麗姫のうつくしさはとりわけたっぷりとかさを増すのであった。麗姫はまた、随分客に無理な難題を持ちかけた。荘子のパトロン支離遜は決して彼女に色恋の望みをかけてのパトロンではなかったが、それだけにまた彼女は余計甘え宜かった。ある時は西の都の有名な人形師に、自分そっくりな生人形を造らせてれとせがんだ。それからまた東海に棲む文鰩魚ぶんようぎょを生きたままで持参して見せて呉れとねだった。その魚は常に西海に棲んで居て夜な夜な東海に通って来る魚だなぞと言われて居た珍しい魚であった。この魚に就いて書かれてある山海経せんがいきょう中の一章をいてみる=状如鯉魚、魚身而鳥翼、蒼文而首赤喙、常行西海、遊於東海、以海飛、其音如鶏鸞。

 だが東海の海近い姑蘇こそから出発して揚子江を渡り、淮河わいがの胴に取りついてその岸を遡り、周の洛邑へ運ぶ数十日間その珍魚を生のままで保つことは、ほとんど至難な事だった。支離遜はしかしる神技を有する老人に謀って麗姫のその望みをかなえてやった。ただし老人はそれを運ぶ水槽のなかの仕掛けは誰にも見せなかったという話だ。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。