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渾沌未分(後編) (1/3)

 貝原は夏中七八遍も小初を踊りに連れ出したことがあるので、ちょっとした小初の好きな食べものぐらい心得ていた。浅夜に瀟洒な鉄線を組み立てている清洲橋きよすばしを渡って、人形町の可愛かわいらしい灯の中で青苦い香気のある冷やし白玉を食べ、東京でも東寄りの下町の小さい踊り場を一つ二つ回って、貝原はあっさり小初の相手をして踊る。

 この界隈の踊り場には、地つきの商店の子弟が前垂れを外して踊りに来る。すこし馴染なじみになった顔にたまたま小初は相手をしてやると、

「へえ、へえ、済みません」

 お客にするように封建時代的なみ手をして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑きくず臭い汗の匂いを我慢して踊ってやる。

 ときどき銀座界隈へまで出掛けることもある。そうすると今度はニウ・グランドとか風月堂とかモナミとか、格のある店へ入る。そこのロッジ寄りに席を取って、サッパーにしては重苦しい、豪華な肉食をこの娘はうんうんる。貝原は不思議がりもせず、小初をこういう性質もある娘だと鵜呑うのみにして、どっちにも連れて行く。

 月が、日本橋通りの高層建築の上へかかる時分、貝原は今夜は珍しく新川河岸の堀に臨む料理屋へ小初を連れ込んだ。

「待合?」

 小初は堅気な料理屋と知っていて、わざととぼけて貝原にいた。貝原は何の衝動も見せず

「そんなところへ、若い女の先生を連れて来はしません」と言った。

「でも、いま時分、こんなに遅く、いいのかしらん」

「なに、ちっとばかり、資金を回してある家なので、自由が利くんです」

 涼しい食物の皿が五つ六つ並んで、腹の減った小初が遠慮なく箸を上げていると、貝原はビールの小瓶を大事そうに飲んでいる。ぽつぽつ父親のうわさを始めた。

「どうも、うちの老先生のようじゃ、とても身上の持ち直しは覚束おぼつかないですねえ。事業というものは片っぽうで先走った思い付きを引き締めて、片っぽうはひとところへかじり付きたがる不精な考えを時勢に遅れないように掻き立てて行く。ここのところがちょっとしたこつです。ところが、老先生にはこの両方の極端のところだけあって、中辺のじっくりした考えが生まれ付き抜けていなさる。これじゃ網のまん中に穴があるようなもので、利というものは素通りでさ」貝原は父親には、反感を持っていないようなものの、何の興味もないらしい口調だった。

「あたし、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒を見ているの」

「いや、金はもう、老先生にはびた一文出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印をして、いまでもどんなに迷惑しているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」

 貝原は宮大工上がりの太い手首の汗をカフスににじませまいとして、ぐっと腕捲うでまくりして、煽風器せんぷうきに当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆をんでいる。

 小初はひとしきり料理を食べ終わると、いかにも東京の料理屋らしい洗練された夏座敷をじろじろ見回しながら

「あなた、道楽なさったの」と何の連想からかいきなり貝原に訊いた。

「若いときはしました。しかし、今の家内をもらってから、福沢宗になりましてね、堅蔵ですよ」

「お金をたくさん持って面白い」

「何とか有効に使わなくちゃあならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」

「そう」

 小初は、もう料理のコースの終わりのメロンも食べ終わって、皮にたまった薄青い汁を小匙こさじの先で掬っていた。

 ふっとした拍子に貝原と小初は探り会う眼を合わせた。

「今夜、何か話があるの」

 小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引き締まらせた。小初がずっと端麗たんれいに見える。その威厳がかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、

「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気で聴いて下さい。これは家内とも相談しての上ですから――まあ、私たちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に言うとから駄目なのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現れて来るんですね」

「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、

「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋を、ここに新しく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」

 貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利を掴むときのような狡猾こうかつな相を現して来た。がそれもじきにまた曖昧になり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見よそみをした。

 小初は貝原の様子などには頓着せず、貝原の言葉について考え入った。――自分の媚を望むなら、それを与えもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、すべてを犠牲に投げ出しもしよう。だがこの宮大工上がりの五十男の滑稽な申し込みようはどうだ。

「貝原さん、子供が欲しいなんて言わずに真直まっすぐに私が欲しいと言ったらどうですの」

「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」

 貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は言った。

「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりのうそを言ったのですか。失礼とか恥ずかしいとか言っている世の中じゃあないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい眼をしながら言い続けた。「それには私たち、どんな取引だってするというのよ」

 小初のきつい眼から涙が二三滴落ちた。貝原は身の置き場所もなく恐縮した。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で言った。

「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。