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渾沌未分(前編) (1/4)

 小初は、跳ね込み台のやぐらの上げ板に立ち上がった。腕を額にかざして、空の雲気を見回した。軽く矩形くけいもたげた右腕の上側はココア色に日けしている。腕の裏側から脇の下へかけては、さかなの背と腹との関係のように、急に白く柔らかくなって、何代も都会の土に住み一性分の水をんで系図を保った人間だけが持つえて緻密なすごみと執拗しつよう鞣性じゅうせいを含んでいる。やや下ぶくれで唇が小さく咲いて出たような天女型の美貌だが、額にかざした腕の陰影が顔の上半をかげらせ大きな尻下がりのが少し野獣じみて光った。

 額に翳した右の手先と、左の腰盤に当てた左の手首の釣り合いが、いつも天候を気にしている職業人のみがする男型のポーズを小初にとらせた。中柄で肉の締まっているこの女水泳教師の薄い水着下の腹輪の肉はまだ充分発達しない寂しさを見せてはいるが、腰の骨盤は蜂型にやや大きい。そこに母性的の威容とたくましい闘志とを潜ましている。

 蒼空あおぞらは培養硝子ガラスを上からかぶせたように張り切ったまま、温気うんきを籠もらせ、界隈かいわい一面の青あしはところどころ弱々しくおののいている。ほんの局部的な風である。だいたい鬱結うっけつした暑気の天地だ。荒川放水路が北方から東南へ向けまず二筋になり、葛西川橋の下から一本の大幅の動きとなって、河口を海へかしている。

「何というわからない陽気だろう」

 小初はつぶやいた。

 五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣われた。

 西の方へ瞳を落とすと鈍い炎がいぶって来るように、都会の中央から市街の瓦屋根の氾濫が眼を襲って来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯ガスタンクを堡塁ほるいのように清砂通りに沿う一線と八幡やわた通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延まんえんしている。近くの街の瓦屋根の重畳は、躍って押し寄せるように見えて、いちいちは動かない。そして、うるさいほど肩の数をそびやかしている高層建築と大工場。灼熱しゃくねつした塵埃じんあいの空に幾百筋も赤くただれ込んでいる煙突の煙。

 小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕に添え、まぶしくないよう眼庇まびさしを深くして、今更のように文化の燎原りょうげんに立ち昇る晩夏の陽炎かげろうを見入って、深いめ息をした。

 父の水泳場は父祖の代から隅田川岸に在った。それが都会の新文化の発展に追いけられ追い除けられして竪川たてかわ筋に移り、小名木川筋に移り、場末の横堀に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置き場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端に東京は大東京と画大かくだいされ、砂村も城東区砂町となって、立派に市域の内には違いなかった。それがわずかに「わが青海流は都会人のたしなみにする泳ぎだ。決して田舎には落としたくない。」そういっている父の虚栄心を満足させた。父は同じ東京となった放水路の川向こうの江戸川区には移り住むのを極度に恐れた。葛西という名が、旧東京人の父には、市内という観念をいかにしても受け付けさせなかった。ついに父は荒川放水を逃路の限りとして背水の陣を敷き、青海流水泳の最後の道場を死守するつもりでいる。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。