» 公開

百喩経(1) (1/2)

前言


 この作は旧作である。仏教は文芸に遠い全々道徳的一遍のものであるかという人に答えるつもりで書いたものである。だが繰り返してう、この作はやや旧作に属するものである。で、文章の表現が、いくらか前時代のものであると感ぜらるるならば了恕りょうじょして頂きい。ただ、仏教なる真理を時代に応じてクリエーションして行く者は芸術家と同じ直覚力を持たねばならぬということを、否たとえこの私の作は拙悪であるとしても仏教と文芸はむしろ一如相即のものであるという事を会得して頂くならば私の至幸とするところである。

 なお百喩経ひゃくゆきょうは、仏典の比喩経のなかの愚人(仏教語のいわゆる決定性けつじょうしょう)のたとえばかりを集めた条項からその中の幾千を摘出したものである。但し経本には本編の小標題とその下の僅々二三行の解説のみより点載しては無い。本文は全部其処そこからヒントを得た作者の創作である。


愚人食塩喩


塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった。

 なんにも味の無い男だった。うとすぐ帽子をってお辞儀をするような男だった。おまけにおとなしく鼻もかむ。

「すこし塩をつけてべてみたらどう」

 石膏せっこう屋のおかみさんが歯朶子しだこに教えてれた。おかみさんは歯朶子に払う助手料を差し引く代わりに石膏置き場の小屋を少し綺麗きれいに掃除して呉れた。

「そうねえ。すこし塩をつけて喰べてみましょう」

 歯朶子が返事した。

 小屋の真中の勇ましい希臘ギリシャの彫刻に手かばんを預けて歯朶子と男の逢いき――いきなり歯朶子は男の頬をびしゃりと叩いた。そして黙ってすまして居た。

「ひどい。なんの理由もなしに.........」

 性急にどもりながら男の声は発酵はっこうした。

「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。口説いたのよ。ここのうちの青熊が」

「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」

 男の略図のような単純な五臓六腑が生まれてはじめて食物を送るため以外に蠕動ぜんどうするのが歯朶子に見えた。男はふるえる唇を前歯の裏でおさえていった。

「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。