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ガルスワーシーの家(1) (1/3)

 ロンドン市の北郊ハムステットの丘には春も秋もよく太陽が照り渡った。このほとんど何里四方小丘の起伏する自然公園は青くわん状にくねってロンドン市の北端を抱き取っている。丘の表面にはかや、えにしだ、野薔薇ばらなどが豊かに生い茂り、緻密な色彩を交ぜ奇矯な枝振りをわせて丘の隅々までも丹念な絵と素朴な詩とを織り込んで居る。景子のロンドンにおける仮寓かぐうは此の丘の中に在った。

 中秋のる快晴の日の午後、景子は友人の某大学英文科の助教授宮坂を案内して彼がしきりにいたがっていたこの国の文学者ジョン・ガルスワーシー邸を訪ねて行った。

 友人の宮坂は多年の念願が成就する喜びに顔を輝かし丘の小道を靴で強く踏みしめながら稚純な勇んだ足どりで先に立って歩いた。ロンドンでかつて有名だった老女優の隠退後の邸宅がまず行く手にある。その黒く塗られた板塀について曲がるとだらだら坂になり、丘の上のメリー皇后の慈善産院の門前へ出た。ここで景子たちは一寸立ち止まって足を休めた。それから鬱蒼うっそうとして茂る常磐樹ときわぎの並木を抜けると眼前が急に明るく開けてロンドン市のはずれを感ぜしめるコンクリートの広い道路が現れる。道路の向こう側には市の公園課の設けた細長い瀟洒しょうしゃとした花園が瞳をみはらせる。此の花園は春から夏にかけて、陽に光るたくましいにわとこや、細かく鋭いおうちの若葉が茂る間にライラックの薄紫の花がただよい、金鎖草の花房が丈高い樹枝にあふれて隣接地帯の白石池から吹き上げる微風にまばゆいばかり金色が揺らめいていた。今は秋なので紅白、黄紫のダリヤが星のように咲き静まっている。低い石柱に鉄の鎖を張った外かくに添ってその花園のはずれまで歩くと市街建築の取り付きである二階造りの石灰を塗った古ぼけて小さな乾物屋がある。その角を二人は右に切って静かに落ち着いたヴィクトリヤ女王朝前に建てられたという三階建ての家々が立ち並ぶ横丁を歩いて行った。二ツ目のつじの右の角は赤煉瓦れんがの塀で取り囲まれた一画となって、その塀越しにすっきりと眼もさめるような白亜の軍艦が浮かんで見える。軍艦と見えたのは実は軍艦風に建てられた家屋だ。以前景子は家主と連れ立ってここへ初めて来た時、この軍艦形の建物を発見して子供のように喜んだものだった。その時家主は景子に話して聞かせた。この家は、しばらく前に死んだ或る海軍大将の家で、アドミラルハウスと呼ばれている。その大将アドミラルは退役後此の軍艦形の家を造って毎日屋上の司令塔に昇り昔の海上生活をしのんだという話だった。景子はこの話を宮坂にしながら塀に沿って進むと道は頑固な丈の高い鉄柵に突き当たり左へ屈曲する。そこで景子はその鉄柵の中の別荘風の建物を指してこれがガルスワーシーの家だと宮坂に告げた。彼は少しうろたえ気味にち止まってしばらく門内を眺めていたがその家の何となく取り付き難い気配けはいに幾分当惑の色を浮かべた。

 この家は道路に面して鉄柵を張った前庭を置き暗褐色のどっしりした玄関が冷淡に控えているが、一寸横へ回って見ると、この邸内は斜めに奥へひろがり、四季咲きの紅白のつる薔薇に取り囲まれた二百坪ばかりの緑の芝生の裏庭に向かう室は軽快なサンルームとなって、通りすがりの男女にちょっと盗み見したい気持ちを起こさせる。非常に繊細な工夫によって建てられた快適な住居であることがわかる。そしてガルスワーシーがロンドンの汚れた霧瓦斯ガスのがれて健康の丘と呼ばれるハムステットに日常人事の受付所として設けたこの邸の表玄関にくらべて、ひそやかでしかも華やかな裏庭一帯の感じは、彼が平常多くの時間を過ごしに行っている遠く離れた田舎の本宅の情景の一部を移し採って来たもののように見える。

 この邸宅が現す感じのように典型的の英国人であるガルスワーシーは一見気難きむずかしやのようで実は如才ない苦労人だということがつき合って行くうちに判って来る。景子が英国ペンクラブの会員となってその主宰者の彼から招待を受けて彼をこの家に訪問して以来、彼は打ち融けて時折裏庭のあずまやでお茶の会をしてくれたりした。

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歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。