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ドーヴィル物語(9) (1/3)

 初秋の午前の陽が、窓から萌黄もえぎ色に射し込み、鏡の前にゼラニュウムの花が赤い唇を湿らしている夢のような部屋。

 イベットは男に口をきくのを許さなかった。

 ――いま二人は「物」よ。ただそれだけ。「物」が最上の価値を出している。ただそれだけ。

 たとえそれだけにしろ、たとえ礼心だけにしろ、イベットが今の小田島に対して、男に対する女になることを努めているのが、小田島にはいじらしくて仕様が無かった。

 小田島はしきりに溜め息をした。そして一言でも言い掛けると、唄でイベットはまぎらした。

 小田島はいつの間にか、眠ってしまった。

 一時間半は過ぎた。何かに自分を根こそぎ持って行かれるような気持ちを、夢うつつの間に覚え、はっとして彼が半身を起こすと、もうイベットは彼の傍にはいなかった。

 イベットが出発する夜の時間に小田島はホテルの玄関に停まっていた。

 迎えの自動車が来た。しかし、それには市長も金持ちも乗っていなかった。その代わり探偵長ボリス・ナーデルが旅行服で乗っていた。多勢のホテルの使用人達に付き添われて出て来たイベットは落ち付いた色の軽快な服装のために寂しい威厳まで加わった。その立ちまさった美貌の前にボリスは三つの花束を差し出した。

 ――マドモアゼル。お気の毒ですが市長マシップ氏も、ミスター・ジョージも西班牙スペインへ御同行出来ません。その代わり私が国境までお見送りする。この花は市長マシップ氏と、ミスター・ジョージとの贈り物です。お二人とも宜しくと云われました。それからも一つの花束は当ドーヴィル警察署からの贈り物です。

 ――警察?

 流石にイベットは顔色を変えた。しかし、すぐ態度を取り直した。

 ――わかりました。皆さまの御厚意に厚く御礼申上げます。

 彼女は車にゆったり乗った。探偵長を横に座らせて彼女は平常よりも権威のある胸の張り方をした。小田島の挨拶にはもう通り一遍の目礼だけしかしなかった。

 車が動き出そうとする時、賭博場の切符台の男があたふた駆けつけて来た。男はボンボン菓子をイベットに差し出した。

 ――ごきげんよう、マドモアゼル。何卒なにとぞ、途中お体をお大切に。

 これに対してもイベットは形式だけの答礼をした。

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歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。