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ドーヴィル物語(8) (1/2)

 突然、イベットに永訣しなければならなくなった世にも憐れな落胆者小田島は、また同時に世にもはずかしい果報者となってホテルへ帰った。イベットが訪ねて来る十時半にはもう一時間とは無い。

 小田島がホテルの自分の部屋の扉を開けると、今まで意識から抜け切っていた女がまだ部屋にいた。女は浴室バスから上ったらしい丈夫相な半裸体のまま朝の食事をっていた。車付きの銀テーブルの上にキャビアのかんが粉氷の山に包まれている。それからみさしの白葡萄ぶどうのグラス――小田島は呆気あっけに取られてその傍へ突っ立った。

 女は彼を見ると、それでも沓下だけは大急ぎで穿いた。そして彼の体を全く馴染みの男の様に抱えてテーブルの前の椅子に座らせた。

 ――あんた帰って来ないもんだから、一人で朝飯始めたのよ。まあ朝の御挨拶をしましょうね。ボン・ジュール・モン・プチ。

 そしてナプキンを彼の胸に挟んだ。

 ――ところであんた、何を食べるの。散歩したんでお腹が空いたでしょう。

 彼には今、怒る勇気も抵抗する気力も無いのだ。

 ――僕はこれがいい。

 小田島はグラスに酒をついで呑んだ。一杯では胸の渇きは納まらない。

 黒パンにチーズを塗りながら、じっと彼が酒をあおるのを眺めていた女は、この種の女の敏感に伴う微かな身慄いを身体中に走らせたが、最後に歪めた眼をだらしなく緩めると力の抜けた様にパンもナイフもテーブルへげ出して言った。

 ――やっぱりそうだ。この人はイベットに逢って来たんだ。

 小田島はすこしてれた様子で手を止めず、ぐいぐいグラスを呑み干すので、女はいくらか気を呑まれて呆然と見ていた。が、やがて椅子を離れてしょんぼり着物を着初めた。

 ――まあ宜いだろう。折角食べかけたご飯だけでも食べてからにしたら。

 こう言う小田島に女は何の返事もし無いで、すっかり着物を着てしまい、髪も手早く直した。そして小田島の傍に来て手を差し出した。

 ――どうしたと言うんだい。あんまりおとなしくなり過ぎたじゃ無いか。

 ――すっかり判ってるのよ。イベットが追い付けこの部屋へ来るんでしょ。そしてこの部屋の女王になるんでしょう。その時まであたしがこの部屋に残っていたら、あたしあいつにどんな憎しみを持っていても、腰元の様に愛想よく使われなけりゃならないから。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。