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ドーヴィル物語(7) (1/3)

 寺の役僧に礼を言ってイベットは小さい手帳を乗馬服の内隠しに仕舞った。それから役僧の姿が祭壇の横の扉に隠れたのを見届け小田島に近寄って来た。

 ――よくお出掛けになってね。私も急にあなたにお目にかかりたい事情が出来たの。けど先刻ホテルに帰って聞いた時お部屋は閉まってあなたはまだ寝てらしった御様子よ。

 薄暗い祭壇の長い蝋燭ろうそく百合ゆりの花の半面や聖母像の胸を照らしていてあとははっきり何も見えない。胴をちぎれるほど締めたイベットの細身の乗馬服姿は修繕中の足場で妨げられたステンドグラスから僅かな光で見い出される。

 ――君は発つんですってね。

 ――まあ、どこから聞いて来て?......そうなの、急に、今朝がたそれがきまったような訳なの。

 ――どうしてそんなに急にきまったの。誰かがきめたの。君自身が?

 ――みんながきめたんですわ、市長さんはじめこのドーヴィルの人達が。

 ――今日の夕方発つんだってね。あそこで馬を番してるお喋舌りの男に聞いたんだ。

 ――ええ、あの男お喋舌りだけど割合に親切で正直者よ。――で私、急に今朝あなたにお目に掛かろうとしたの。それからモンブラン(白山という馬の名)にも乗り納めのお名残が惜しみたかったのよ。

 彼女は殆ど小田島に寄り添って来た。

 ――そして、もう調べはついたの?

 ――ええ、だいたい――

 彼女は回りを見回して小さい声になり

 ――そろそろ歩きながら話しましょう............フランスの大蔵省が秘密にしている賭博場からの揚がり高の大体の見当がついたわ。もっとも数字は百以上ある賭博場カジノの中の主な九つだけについて判っただけだけれど、それだけでも判ればあとの予想はつくわけよ。あなたそれはどれ位あると思って? 去年のたった九つだけの賭博場からの揚がり高でも総額二億六千万フラン以上よ。

 二億六千万フラン! それを日本平価に換算すれば二千万円以上の見当だ。それが九つの賭博場カジノからの揚がり高とすれば百以上からの上がり高は大したものだ。しかし、彼は今、そんなことに驚いてばかりいる余裕は無い。崖下の人通りの無い場所を幸い彼はぐっと強い調子でイベットに迫った。

 ――マドモアゼル・イベット! 君はせっかく探ったそういう秘密を、どうして僕にそう喋舌っちまうんだ。それから僕をこんなわけもわからない贅沢地へ連れ出してなぶるような目にばかり逢わせておいて何が面白いんだ。君が僕に要求するのは一体何だ。

 小田島の言葉には来る早々からあんな女にまつわられ通した憤懣ふんまんも彼の無意識の中にまじっている。と、イベットの体が少しふるえて、その慄えの伝わる手が小田島の肩に掛かった。

 ――矢張り、あなたも、そう言う事をいう方だったの。

 彼女はありったけの精力を瞳に集め、小田島の顔に見入り言葉を続けた。

 ――東洋人も西洋人と同じ様にやはり謎に堪えられ無いのでしょうか。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。