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ドーヴィル物語(6) (1/2)

 女は小田島の寝台へ投げ込まれ、前後不覚に眠り込んでしまったが、彼は女の傍で到底眠る気になれない。彼は長椅子を壁際に押して行き、毛布を掛けてその上へ横になると、疲れがすぐに深い眠りに彼を引き入れて行った。

 小田島が長椅子の上からめたのは、朝も余程けた頃だった。寝台の女はまだ前後不覚に寝こけている。そのすさんだ寝姿を見るにつけ、彼にはイベットの白磁のように冷たい魅力が懐かしまれる。もしイベットに、この女のような無茶苦茶があったら自分のイベットに対する気持ちは、もうずっと前から世間普通の恋となっていたであろう。だがイベットが時々虚脱して単なる「物」になる不思議、あれは魅力としても殆ど超人間的なものだ。それとあの子供のように見せつけたがる技巧癖、あれらは二人を恋にするにはあまりに白けさせる。で、結局彼は彼女に恋以外の何物とも知れぬ魅力できつけられて来たのだけれど......今度、彼女は何か覚悟するところでもあって、自分をここへ呼び寄せたのではあるまいか、電報で呼ぶくらいの突飛な仕業は、彼女として別に珍しがる程のことでもないが、思いしか昨日オンフルールで会った彼女は一層いつもよりさびし気に見えた。何か最近、彼女に差し迫った変事でもありはしまいか――そんな予感がかすかに起こると小田島はなおさらじっとしていられなかった。

 小田島は廊下へ抜け出し、イベットの泊まっている部屋付のボーイにいくらか金を握らせ、彼女の様子を聞いて見た。ボーイの答えによると彼女は今しがたカジノからホテルへ乗馬服と着替えに帰って来て、むちを持って出て行った。十時には温浴とマッサージとマニキュアを命じてあるから帰って来るに違いない。との事である。彼はその時間までは待ち遠い。それまでこのホテルの自分の部屋にあんな女の寝姿と一緒にいたくもない。彼はイベットが朝の乗馬に出たものと知って、乗馬道を尋ねて行き、彼女におうという気になった。そのうちあの女も眼を醒まし、自分のいないのが分かったらどこかへ出て行ってしまうだろう――小田島はまたそっと部屋へ帰り、急いで平常着と着がえて足早に外へ出た。曇った空は霧のような雨を降らして蒸し暑い。ユーゼーン・コルナッシュ通りの群集は並木の緑と一緒に磨硝子すりガラスのような気体のなかに収まってにぎやかな影をぼかしている。乗馬時間で通るものは馬が多い。彼は一々馬に眼をつけたがイベットは見えない。殆ど前半身を宙に伸び上げ細い前足で空を蹴っている欧洲一の名馬、エピナールに乗り、その持ち主、パウル・ウエルトハイマーが通ると人々は息を止め、霧の中で盛んな拍手が起こった。

 浜には今年流行の背中の下まで割れた海水着の娘や腰だけ覆って全裸の青年達がなみに抱きつきたたかれ倒され、遠くから見る西洋人の肌は剥き立てのバナナのようにういういしい――小田島は突然顔を赤らめた。彼はやはりイベットの肉体を結局は想い続けていたのではないか――いつも自分の心理を突き詰めて行くのに卑怯で気弱な彼はまたしても首を強く左右へ振った。そして何かに逆らうような気勢でさっさと歩き出した。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。