» 公開

ドーヴィル物語(5) (1/3)

 午前一時過ぎのドーヴィル賭博場内だ。

 牛乳色によどんだ室内の空気のなかで、深酷しんこくな血の吸い合いが初まっていた。

 煙草のけむりと、香水の匂いとで疲れている光の中に、賭博台が幾つも漂っている。それにぎっしり人がたかっている。難破したボートに人がたかっているように見える。あまりに縁へのしかかり、沈んでしまった様にも見える人がある。

 二千フランのテーブルでは大賭博団スタンレー一派が戦いを開いている。

 細くてキチンと服装を整えた男、背中を丸出しの女、二人とも揃って肥った体に宝石をちりばめている夫婦。

――あまり綺羅びやかに最上級に洒落ているのでかえって平凡に見える幾十組かが場の大部分を占めているので、欲一方にかかっているかば色の老婆や、子供顔のうぶな青年がかえって目立つ。そしてそれらの人体の間に閃くカルタ札、カルタ札を掃く木沓サボ、白い手、紙幣、紙幣の代わりに使う延べの銀板。――小田島は異様に緊張し、両手を堅く握り合せ、床に足首を立て重い靴の先で場内を見回っていた。

 ――そうら。とうとうまた見付けた!

 四百九十三号室の女である。

 小田島は腹立たしくなった。この女は、まるで誰かに頼まれでもした様に、この土地へ来てから自分の行く先々に付いて回る。実に面白くも無いめぐり合わせだ。

 だが女は、小田島がそんな腹でいようがいまいがという調子でぐんぐん男の腕を捲いて仕舞った。仕方がない! 酔っていないのがまだしもだ、なまじい逆らってわめかれるより逆に利用してここの説明でも聞く方がましだと彼は腹をめてしまった。女はしかし、何か非常にこだわっているように興奮している。そして捲いた男の手を力強く曳いてしばらく場内をあちこち歩いていたがふと立ち止まると急いで腕を解き邪慳じゃけんに小田島の耳朶みみたぶを引いた。

 ――イベットがいる。あんた、イベットが見たくって来たんだろう。ちゃんと知ってる。

 五百フランのテーブルにイベットがいた。「親元」に立っている老紳士の真向かいのテーブルに女王のような取り済まし方で臨んでいる。彼女は顔に非常に似合う好い色の着物を着ている。テーブルの組の人達もみんな彼女にその権威を許し彼女の機嫌に調子を合わせているように見える。中でも彼女の隣の猪首で年盛りの男は卑屈なほど彼女の世話を焼いている。

 イベットも小田島の来たのを認めた。するとわざとらしく猪首の男の肩に凭れ、疲れを癒やす真似まねをした。男は眼を無くしてイベットの手の指を接吻せっぷんした。彼女はまたちらと小田島の方に眼をやったが連れの女には眼もれなかった。小田島はもちろん、こんな女が自分の傍にいるのを知ってもイベットが何とも思わないことを知っていた、それよりもイベットの子供らしいとはいえわざと自分にからかって他の男に巫山戯ふざける様子にいくらかの嫉妬を感じた。だがそれよりもなお彼は連れの女の不思議な様子に気をられた。女はイベットから無視されたにもかかわらず、イベットがこちらを向くとそそくさ目礼し愛想笑いをし、送りキッスまでした。しかも顔は興奮に青ざめ、息使いまでがせわしい。女はイベットが再びテーブルに眼を落とし平気で勝負に身を入れ出すと、小田島を掻きむしるようにき立ててそこを離れた。

 ――あたし口惜くやしい。あたし、またあいつに負けちゃった。あの小娘なんて人の頭を抑える電気が強いんだろう。

 女は涙をぽろぽろこぼしながらやけに小田島を引っ張って場付きの酒場へ入って行った。また酒か。と小田島はくさくさした。そして自分に何の義務があって夕飯だの酒だのとこの女を世話しなければならないのかと小田島は馬鹿々々しくてならなくなった。が、流石さすがに少し女を憐れむ気持ちがイベットに離れている彼の孤独感にみもした。で、仕方無しにまた彼はここへも女について入った。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。