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ドーヴィル物語(4) (1/2)

 人をおだてに乗せることをよくない趣味と心得ていながら、しかも職業としては悪びれず、どこまでもそれを最上の商法信条とする。これがフランス遊覧地気質だ。ドーヴィル、ノルマンジーホテルの食堂もその一つだ。ちょっと客を気易きやすくさせる淡い影を壁の隅々に持たせながら取り付けた様な威厳、上ずった品位、慧眼けいがんのものが早くそれを見破ろうとする前に縦横からあらゆる角度の屈折光線がその作意をフォーカスする。で、客はただもう貴族趣味の夢遊病者となって、われ知らず飲み、食い、踊る。客をそうして狂わせて置きながら、その狂う形骸に向かって心からの親切、愛嬌、敬意を払っているマネージャー始め食堂関係者等の慇懃いんぎんな態度――彼等のその態度にはまったく皮肉も狡さも無い。極めて従容とした自然な態度だ。いかにフランス人が客商売に適しているかが分かる。

 ダンス床を取りいた二百五十組の食卓の一つへ小田島は仕方なしに四百九十三号室の女と席を取った。女は小田島がオンフルールでイベットに別れ、夕方帰って一休みしていると、ほとんど部屋へあばれ込んで来た。女は少し酒に酔っている癖に腹が空いていると言って、小田島の部屋をき回し差し当たり何か口に入れるものを探した。女はとうとう小田島のかばんふたをはね、中を引っ繰り返した。そして小田島が巴里パリを発つ前知人から贈られた缶入りのカキモチを見付けてカリカリみ始めた。

 ――リイのビスケット...............ふふふ......大変トレー旨いボン

 彼女の行儀わるく踏みはだけた棒の様な両脚に、商売女の素っ気無さが露骨に現れていたが、さすがに無雑作に物を食べて口紅をよごさない用心が小田島に少し可哀相かわいそうに思えた。カキモチもいい加減食べると

 ――フランスの女はね。自殺する間際まで食べものの事を考えているのよ。男には失恋しても食物には絶対に失恋したくないのよ。

 女はこんな訳の分からぬことを言ってますますあわれっぽくしおれかかる。

 ――わたし今夜ご飯食べられないのよ。あんた晩ご飯おごってよ。あたし払いが出来なくなって、おっ払われたんだから独りじゃこのホテルの食堂へは入れないのよ。

 小田島は絶体絶命という気がした。

 ――じゃ、まあ、僕と一緒に来たまえ。

 すると女は急にあたりまえだという顔をしてずんずん先に立って食堂へ入って来てしまったのだ。

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歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。