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ドーヴィル物語(1) (1/2)

 日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜おそ巴里パリち、未明にドーヴィル、ノルマンジーホテルに着いた。ここは巴里パリから自動車で二時間余りで着く賭博中心の世界的遊楽地だ。

 壮麗な石造りの間のところどころへわざと田舎風を取り入れたホテルの玄関へ小田島が車を乗り付けた時、そばの道路の闇に小屋程の塊が、少しきざして来た暁の光を受け止めているのがに入った。彼の疲れた体にその塊は、強く生物の気配を感じさせた。よくるとそれは象であった。背中から四肢にかけ、縦横に布や刺繍ししゅうや金属で装ってあるらしい象の体は、丸く縛りすくめられ、その前肢に背をもたせ、ダラリと下がった鼻を腕で抱いた一人の黒ン坊が眠っているのもうすうすわかる。まだホテルの羽目にも外に三四人の黒ン坊が、凭れて眠っている様子だ。

 小田島は近頃、巴里パリで読んだ巴里パリ画報の記事を思い出した。カプユルタンのマハラニがドーヴィル大懸賞の競馬見物に乗って出るため、わざわざ国元印度インドから白象を取り寄せたということ。また小さい美しい巴里パリ女優ラ・カバネルが四人の黒ン坊の子供に担がせた近東風の輿こしに乗って出るということ。その伊達競だてくらべに使われた可憐かれんな役者たちが、勤めを果たしてここに眠っていることが彼に解った。

 暁の空に負けて赤黄いろくしなびかけたシャンデリヤの下で小田島が帳場の男に、イベットが確かに泊まっているかどうかを尋ね合わせていると、二三組の男女が玄関から入って来た。男はタキシード、女は大概ガウンを羽織り、伯爵夫妻とでもいうようなゆるやかな足取りで通って行く。次に誰の眼にも莫連女コケットと知れるき出しの胸や腕に宝石の斑張りをした女が通った。いずれドーヴィルストックの名花の一人であろうすごい美人だ。彼女の眼は硝子ガラス張りのようにただ張っている。瞳を一ミリと動かさずに通りすがりの男の消費価値を値踏みするこの種の女のいずれもが持ち合わしている眼だ。

 小さい靴のかかとで駆ける音、それに引きずられて駆ける男の靴の音がして一組の男女がまた玄関から入って来た。小田島は「やあ」と日本語で言ってしまった――イベットの服装はひだがゴシック風に重たくくびれ、ラップの金銀のはく警蹕けいひつの音をたてている。その下から夜会服の銀一色が、を細く曳いている。もし手にしている羽扇が無かったら、武装している天使の図そっくりだ。彼女の面長で下ぶくれの子供顔は、むしろ服装に負けている。連れの男は年老としとった美男だ。薄い皮膚の下に複雑な神経を包んでいるようで、何事も優雅で自分へ有利に料理する老獪ろうかいさを眼の底に覗かしている。その眼は大きいが柔らかい疲れが下まぶたの飾りのような影になっている。この老美男を組んだ腕でぐんぐん引き立てて来たイベットは、咄嗟とっさに小田島を見たが、すぐ、知らん顔をした。そして五六歩あるき階段へ回る廊下の角の林檎りんごの鉢植えの傍まで行くと、老紳士と組んだ腕を解き、右の片手を鉢の縁にかけ、夜会服のすそを膝までめくる。心得のある老紳士はそっと彼女に背を向け中庭の薄明が室内の電灯と中和する水色の窓硝子ガラスに疲れた眼を休ませる。客商売である帳場の者はもちろんこういう時の心得は知っていてそっぽを向く。(小田島ばかりはこういう時の礼儀を知らぬ東洋人であると、しらばくれていられる特権がある。)彼女がまくった膝のくびれが沓下くつしたの端を風鈴草の花のように反り返らせ、あらわになった彼女の象牙色の肉が盛り上がるそこには可愛かわいらしいジャンダークのたて刺青いれずみしてある。フランス乙女倶楽部クラブの会員章だ。実はこの刺青を小田島に見せるために、彼女は人前で靴下止めを直す振りをしたのだ。小田島とランデヴウを約束しようとして他人と一緒の時には、いつも彼女はこの可愛らしいふてぶてしい仕草で合図をする。

 彼女は小田島が彼女の様子を見届けたのを知ると裳を元通り降ろして立ち上がり、老紳士に言った。

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鶴は病みき

歌人として有名だった岡本かの子の最初の小説集『鶴は病みき』(1936)の電子復刊です。表題作のほか、「渾沌未分」「敵(戯曲)」「豆腐買い」等、9編の短編を収録。信正社による初刊本を底本とし、伏せ字は実業之日本社版の「岡本かの子全集」を参照して補いました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り、読みやすくしています。昭和の評論家、十返肇による「岡本かの子論」も収録しました。