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俗っぽさに賭ける痛切な青春――太宰治著『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』発売

 7月29日にITmedia 名作文庫から電子書籍で発売された『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』は、処女単行本『晩年』(1936)に続く太宰治の2冊目の本(1937)で、「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」「ダス・ゲマイネ」の4作を収めています。「虚構の彷徨」「虚構の春」と紛らわしいですが、「虚構の彷徨」はタイトルだけで、そういう名前の短編は存在しません。

 最も有名なのは「ダス・ゲマイネ」でしょう。太宰ファンの間でも非常に人気の高い作品です。ダス・ゲマイネとはドイツ語のDas Gemeine(俗っぽいこと、通俗性)から来ていますが、もう1つ、太宰の故郷である津軽弁の「んだすげまいね」(それじゃダメだ)にもかけているとされています。

 この作品に登場するのは、芸術に係わろうとしながらも、芸術について語ろうとすればするほど、その卑小さが際立ってしまうような悲しい人間ばかりです。音楽家を自称し、いつもケースをこれみよがしに持ち歩いているのに、誰も彼がヴァイオリンを弾いているところを見たことがない馬場。その馬場を「あいつはダメだ」とこきおろしながら、自分は上野動物園のペリカンのスケッチなどをしつつ、明らかに風采のあがらない佐竹。そして小説家で太宰治という名前の人物まで現れ、この3人に主人公の「私」が加わります。「私」はすでに25歳になっていますが、身分は大学生です。

 ニセモノ感いっぱいの彼らですが、一瞬、同人誌を作ろうか、という話で盛り上がります。ところが、そのための最初の会合でさっそく馬場と太宰が口論になり、何一つ形にならないまま日々は過ぎて行きます。 「ダス・ゲマイネ」は、太宰にとってたいへんな自信作でした。作家は「卑俗の勝利」ということを言っています。「「卑俗」といふものは、恥辱だと思はなければ、それで立派なもので、恥辱だと思ったら最後、収拾できなくなるくらい、きたなくなります」。これは、発表当時の太宰自身の言葉です。俗っぽいということは、それを自分で恥ずかしいと思わなければ、なかなか立派なことだ。でも、恥ずかしいと思ってしまったら最後、とてもきたならしい態度になる。そんな意味でしょうか。つまり、俗っぽくあることに堂々としていろ、そのことに言い訳なんか始めると、その自意識が前に立ってしまって、みっともないぞ。そんなことが言いたかったのかもしれません。

 しかし、俗っぽくて何が悪い、と開き直れる人なら、おそらくこんな小説は書かないでしょう。自分自身の俗っぽさを十分に意識し、しかしそのことで卑下することなく生きていくにはどうしたらいいか。笑い飛ばすことです。滑稽にしてみせることです。だから「ダス・ゲマイネ」の登場人物たちの言動は、どうしようもなく滑稽で悲しいのです。

 もっとも、こうした態度について、「どちらにしろ、自意識過剰だろ? 結局、自分が可愛いだけだろ?」と捉えてしまう人は、「ダス・ゲマイネ」に限らず、おそらく多くの太宰作品を読み通すのが苦痛でしょう。

 さて、あなたは「ダス・ゲマイネ」をどのように読むでしょうか。

[北條一浩]

虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ※電子書籍版『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』から転載

北條一浩(ほうじょうかずひろ)
ライター、編集者。片岡義男.com編集人。書籍(古書含む)や書店、出版状況などを主なフィールドにしつつ、取材や執筆を行う。著書に『わたしのブックストア』(アスペクト文庫)、取材・構成した本として『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』(本の雑誌社)、『古本検定』(朝日新聞出版)、編集した本に『冬の本』、『いちべついらい 田村和子さんのこと』(夏葉社)などがある。