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道化の華(7) (1/5)

 夜が明けた。空に一抹の雲もなかった。きのうの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々の隅にだけ、ねずみいろして少しずつのこっていた。海にはもやがいっぱい立ちこめ、その靄の奥のあちこちから漁船の発動機の音が聞こえた。

 院長は朝はやく葉蔵の病室を見舞った。葉蔵のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言った。

「たいていだいじょうぶでしょう。でも、お気をつけてね。警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだではないのですから。真野君、顔の絆創膏ばんそうこうは剥いでいいだろう。」

 真野はすぐ、葉蔵のガアゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、ただ赤白い斑点になっていた。

「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど、これからはほんとうに御勉強なさるように。」

 院長はそう言って、はにかんだような眼を海へむけた。

 葉蔵もなにやらばつの悪い思いをした。ベッドのうえに坐ったまま、脱いだ着物をまた着なおしながら黙っていた。

 そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむようにしてはいって来た。みんなおはようを言い交わした。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。

「きょういちにちです。お名残おしいですな。」

 院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った。

「如才がないな。たこみたいなつらだ。」彼等はひとの顔に興味を持つ。顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂にあのひとの画があるよ。勲章をつけているんだ。」

「まずい画だよ。」

 飛騨は、そう言い捨ててヴェランダへ出た。きょうは兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした布地であった。襟もとを気にしいしいヴェランダの椅子に腰かけた。

「飛騨もこうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もヴェランダへ出た。「葉ちゃん。トランプしないか。」

 ヴェランダへ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。

 勝負のなかば、小菅は真面目に呟いた。

「飛騨は気取ってるねえ。」

「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」

 三人はくっくっ笑いだし、いっせいにそっと隣のヴェランダを盗み見た。い号室の患者も、ろ号室の患者も、日光浴用の寝台に横たわっていて、三人の様子に顔をあかくして笑っていた。

「大失敗。知っていたのか。」

 小菅は口を大きくあけて、葉蔵へ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。彼等は、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉蔵も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい舞台装置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑い声は、彼等にさえ思い及ばなかったほどの大事件を生んだ。真野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑い声が起こって五分も経たぬうちに真野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしている三人へ、このことを知らせた。

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虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ

『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)に続き、1937年6月1日、新潮社から刊行された前衛的な第二著作集です。師匠の佐藤春夫に命名された「虚構の彷徨」は「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」で構成される三部作。「虚構の春」では友人・知人からの手紙をコラージュし、「ダス・ゲマイネ」では「太宰治とかいうわかい作家」を登場させるなど、前衛的な創作手法に挑戦しています。ITmedia 名作文庫では新潮社版を底本に、巻頭に解説「俗っぽさに賭ける痛切な青春」(北条一浩)を収録しました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍です。