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道化の華(6) (1/3)

 その夜、だいぶ更けてから、葉蔵の兄が病室を訪れた。葉蔵は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでいた。きのう兄がここへはじめて来たときにも、彼等はトランプをしていたはずである。けれども彼等はいちにちいっぱいトランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがっている程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に発揮できないようなゲエムはきっと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもいおもいに趣向こらしたでたらめを述べる。札をひらく。当たったためしのないのだが、それでもいつかはぴったり当たるだろう、と彼等は考える。あたったら、どんなに愉快だろう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしていない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も来合わせた。

 兄は病室へはいって来て、ちょっと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである。このような不幸は人生にままある。葉蔵は美術学校時代にも、これと同じような不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたようにして、大声で言った。「君は、僕の時間にはあくびばかりしている。一時間に百回あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえてみたような気がしているらしかった。

 ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いている。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いったいこれは、どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。

 僕は、海浜の療養院を書いている。この辺は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むずかしい理屈はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる。なにも言うな。

 兄は、みんなに軽く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなずいて、小菅と真野へ目くばせした。

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虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ

『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)に続き、1937年6月1日、新潮社から刊行された前衛的な第二著作集です。師匠の佐藤春夫に命名された「虚構の彷徨」は「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」で構成される三部作。「虚構の春」では友人・知人からの手紙をコラージュし、「ダス・ゲマイネ」では「太宰治とかいうわかい作家」を登場させるなど、前衛的な創作手法に挑戦しています。ITmedia 名作文庫では新潮社版を底本に、巻頭に解説「俗っぽさに賭ける痛切な青春」(北条一浩)を収録しました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍です。