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道化の華(5) (1/5)

 翌る日、朝から療養院がざわめいていた。雪が降っていたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松そなれまつがいちように雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂浜にも、雪がうすく積もっていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼頃までつづいた。

 葉蔵は、ベッドの上で腹這はらばいになり、雪の景色をスケッチしていた。木炭紙と鉛筆を真野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事にかかったのである。

 病室は雪の反射であかるかった。小菅はソファに寝ころんで、雑誌を読んでいた。ときどき葉蔵の画を、首すじのばして覗いた。芸術というものに、ぼんやりした畏敬を感じているのであった。それは、葉蔵ひとりに対する信頼から起こった感情である。小菅は幼いときから葉蔵を見て知っていた。いっぷう変わっていると思っていた。一緒に遊んでいるうちに、葉蔵のその変わりかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍でさえあった葉蔵を、小菅は少年のころから好きだったのである。ことに学生時代の葉蔵が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるような瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがって、観賞の態度であった。つまり利巧だったのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがえして傍観する。これが小菅の、葉蔵や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであろう。小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生になにか期待の対象を感じたい心からである。葉蔵ほどの男が、汗みどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう思っている。その点、やはり葉蔵を信頼しているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉蔵のスケッチを盗み見しながらも、がっかりしている。木炭紙に画かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。

 小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそりしていた。

 真野は、いなかった。洗濯場で、葉蔵の毛のシャツを洗っているのだ。葉蔵は、このシャツを着て海へはいった。磯の香がほのかにしみこんでいた。

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虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ

『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)に続き、1937年6月1日、新潮社から刊行された前衛的な第二著作集です。師匠の佐藤春夫に命名された「虚構の彷徨」は「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」で構成される三部作。「虚構の春」では友人・知人からの手紙をコラージュし、「ダス・ゲマイネ」では「太宰治とかいうわかい作家」を登場させるなど、前衛的な創作手法に挑戦しています。ITmedia 名作文庫では新潮社版を底本に、巻頭に解説「俗っぽさに賭ける痛切な青春」(北条一浩)を収録しました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍です。