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道化の華(2) (1/3)

「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」

 この言葉は間が抜けて、よい。小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗ちゃわんを持ち直した。

 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勲章を胸に三つ付けた肖像画が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとっていた。

「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」小菅は声をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ。」

「行動隊のキヤップだろう。知っている。」飛騨はパンをもぐもぐみかえしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼の用語ぐらい、そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、――それだけでないさ。芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ。」

 食堂は暗くなった。雨がつよくなったのである。

 小菅はミルクをひとくち飲んでから言った。「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因がひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまっていたが、僕は、そうでないと言って置いた。女はただ、みちづれさ。別なおおきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、変なことを言う。いかんぞ。」

 飛騨は、あしもとの燃えているストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあったのだよ。」

 ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちゃんにとっては、屁でもないことさ。女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか。」言いおわってから、頭のうえの肖像画を片眼つぶって狙って眺めた。「これが、ここの院長かい。」

「そうだろう。しかし、――ほんとうのことは、大庭でなくちゃわからんよ。」

「そりゃそうだ。」小菅は気軽く同意して、きょろきょろあたりを見廻した。「寒いなあ。君は、きょうここへ泊まるかい。」

 飛騨はパンをあわててみくだして、首肯うなづいた。「泊まる。」

 青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交わしているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!

 さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一転、パノラマ式の数こまを展開させるか。おおきいことを言うでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。

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虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ

『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)に続き、1937年6月1日、新潮社から刊行された前衛的な第二著作集です。師匠の佐藤春夫に命名された「虚構の彷徨」は「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」で構成される三部作。「虚構の春」では友人・知人からの手紙をコラージュし、「ダス・ゲマイネ」では「太宰治とかいうわかい作家」を登場させるなど、前衛的な創作手法に挑戦しています。ITmedia 名作文庫では新潮社版を底本に、巻頭に解説「俗っぽさに賭ける痛切な青春」(北条一浩)を収録しました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍です。