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未帰還の友に(3) (1/2)

 ささやかな事件かも知れない。しかし、この事件が、当時も、またいまも、僕をどんなに苦しめているかわからない。すべて、僕の責任である。僕は、あの日、君と別れて、その帰りみち、高円寺の菊屋に立ち寄った。実にもう、一年振りくらいの訪問であった。表の戸は、しまっている。裏へまわったが、台所の戸も、しまっている。

「菊屋さん、菊屋さん。」と呼んだが、何の返事も無い。

 あきらめて家へ帰った。しかし、どうにも気がかりだ。僕はそれから十日ほど経って、また高円寺へ行ってみた。こんどは、表の戸が雑作なくあいた。けれども、中には、見た事も無い老婆がひとりいただけであった。

「あの、おじさんは?」

「菊川さんか?」

「ええ。」

「四、五日前、皆さん田舎のほうへ、引き上げて行きました。」

「前から、そんな話があったのですか?」

「いいえ、急にね。荷物も大部分まだここに置いてあります。わたしは、その留守番みたいなもので。」

「田舎は、どこです。」

「埼玉のほうだとか言っていました。」

「そう。」

 彼等のあわただしい移住は、それは何も僕たちに関係した事では無いかも知れないけれども、しかし、君のその「ノオ」の手紙が、僕と君が上野公園で別盃をくみかわしたあの日の前後に着いたとしたら、この菊屋一家の移住は、それから四、五日後に行われた事になる。何だか、そこに、かすかでも障子の鳥影のように、かすめて通り過ぎる気がかりのものが感じられて、僕はいよいよ憂鬱になるばかりであった。

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冬の花火

戦後、掌を返したような世の中の風潮に憤った太宰治はその怒りを戯曲の形で作品化しました。1946年「展望」6月号に発表された「冬の花火」と同年9月号の「人間」に発表された「春の枯葉」です。ITmedia 名作文庫では『冬の花火』(中央公論社、1947年7月5日発行)を底本に、この2作と「苦悩の年鑑」、「未帰還の友に」、「チャンス」、5つの掌編をまとめた「津軽通信」、そして巻頭に解説「戦後日本へのぬぐいがたい違和感」(北条一浩)を収録しました。2010年の常用漢字改定に照らし合わせ人名ともに現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍です。