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猿ヶ島(1) (1/3)

 はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。私は眼をしばたたいて、島の全貌を見すかそうと努めたのである。裸の大きい岩が急な勾配を作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞窟のくろい口のあいているのがおぼろに見えた。これは山であろうか。一本の青草もない。

 私は岩山の岸に沿ってよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞こえる。さほど遠くからでもない。おおかみであろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮ほうこうをさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。

 私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗い胡麻石ごまいしが殆ど垂直にそそり立っているのだ。そのあいだに、いま私の歩いている此の道が、六尺ほどの幅で、坦々とつづいている。

 道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得ていたのである。

 ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。私は島が思いのほかに小さいのを知った。

 霧は次第にうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額のうえにのしかかって見えだした。みねが三つ。まんなかの円い峯は、高さが三四丈もあるであろうか。様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起こって、ひろい丘になっている。断崖と丘のはざまから、細い滝がひとすじ流れ出ていた。滝の附近の岩は勿論もちろん、島全体が濃い霧のためにあおぐろく濡れているのである。木が二本見える。滝口に、一本。かしに似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。そうして、いずれも枯れている。

 私はこの荒涼の風景を眺めて、しばらくぼんやりしていた。霧はいよいようすらいで、日の光がまんなかの峯にさし始めた。霧にぬれた峯は、かがやいた。朝日だ。それが朝日であるか、夕日であるか、私にはその香気でもって識別することができるのだ。それでは、いまは夜明けなのか。

 私は、いくぶんすがすがしい気持ちになって、山をよじ登ったのである。見た眼には、けわしそうでもあるが、こうして登ってみると、きちんきちんと足だまりができていて、さほど難渋でない。とうとう滝口にまでいのぼった。

 ここには朝日がまっすぐに当たり、なごやかな風さえ頬に感ぜられるのだ。私は樫に似た木の傍へ行って、腰をおろした。これは、ほんとうに樫であろうか、それともならもみであろうか。私はこずえまでずっと見あげたのである。枯れた細い枝が五六本、空にむかい、手ぢかなところにある枝は、たいていぶざまにへし折られていた。のぼってみようか。

ふぶきのこえ

われをよぶ

 風の音であろう。私はするするのぼり始めた。

とらわれの

われをよぶ

 気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯れ枝を二三度ばさばさゆすぶってみた。

いのちともしき

われをよぶ

 足だまりにしていた枯れ枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。

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晩年

1936年6月25日に砂子屋書房から刊行された太宰治の記念すべき第一著作集です。第一回芥川龍之介賞候補作となった「逆行」を含む15の短編が収録されています。後の著作集に再録されている作品も少くありません。「私はこの短編集一冊のために、十箇年を棒に振った」という太宰。書きまくった「原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじてこれだけである」とは本人の弁。1941年、一部を手直しして、同書房から改版刊行されました。1947年には新潮文庫に登場、その後、出版社各社から刊行され現在に至っています。ITmedia 名作文庫では、巻頭に解説「俗出発点にあったバリエーションを愉しむ」(北条一浩)を収録し、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍をお届けします。(近日刊行予定)