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陰火(4)尼 (1/5)

 九月二十九日の夜更けのことであった。あと一日がまんをして十月になってから質屋へ行けば、利子がひと月分もうかると思ったので、僕は煙草ものまずにその日いちにち寝てばかりいた。昼のうちにたくさん眠った罰で、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋の襖がことことと鳴った。風だろうと思っていたのだが、しばらくして、またことことと鳴った。おや、誰かいるのかなとも思われ、蒲団ふとんから上半身をくねくねはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立っていた。

 中肉のやや小柄な尼であった。頭は青青していて、顔全体は卵のかたちに似ていた。頬は浅黒く、粉っぽい感じであった。眉は地蔵さまの三日月眉で、眼は鈴をはったようにぱっちりしていて、睫がたいへん長かった。鼻はこんもりともりあがって小さく、両唇はうす赤くて少し大きく、紙いちまいの厚さくらいあいていてそのすきまから真っ白い歯列が見えていた。こころもち受け口であった。墨染めのころもはのりつけしてあるらしく折り目折り目がきっちりとたっていて、いくらか短めであった。脚が三寸くらい見えていて、そのゴムまりみたいにふっくりふくらんだ桃いろの脚にはうぶ毛が薄く生えそろい、足くびが小さすぎる白足袋のためにきつくしめつけられて、くびれていた。右手には青玉の珠数じゅずを持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持っていた。

 僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりと言った。尼は僕の部屋へはいり、静かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まで歩いて来て、それから、ちゃんと座った。僕は蒲団の中へもぐりこみ、仰向けに寝たままで尼の顔をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲った。息がとまって、眼さきがまっくろになった。

「よく似ているが、あなたは妹じゃないのですね。」はじめから僕には妹などなかったのだな、とそのときはじめて気がついた。「あなたは、誰ですか。」

 尼は答えた。

「私はうちを間違えたようです。仕方がありません。同じようなものですものね。」

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晩年

1936年6月25日に砂子屋書房から刊行された太宰治の記念すべき第一著作集です。第一回芥川龍之介賞候補作となった「逆行」を含む15の短編が収録されています。後の著作集に再録されている作品も少くありません。「私はこの短編集一冊のために、十箇年を棒に振った」という太宰。書きまくった「原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじてこれだけである」とは本人の弁。1941年、一部を手直しして、同書房から改版刊行されました。1947年には新潮文庫に登場、その後、出版社各社から刊行され現在に至っています。ITmedia 名作文庫では、巻頭に解説「俗出発点にあったバリエーションを愉しむ」(北条一浩)を収録し、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍をお届けします。(近日刊行予定)