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陰火(2)紙の鶴 (1/4)

「おれは君とちがって、どうやらおめでたいようである。おれは処女でない妻をめとって、三年間、その事実を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきではないかも知れぬ。いまは幸福そうに編み物へ熱中している妻に対しても、むざんである。また、世の中のたくさんの夫婦に対しても、いやがらせとなるであろう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顔を、なぐりつけてやりたいからだ。

 おれは、ヴアレリイもプルウストも読まぬ。おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっとほんとうのものを見つめている。人間を。人間というわば市場の蒼蠅あおばえを。それゆえおれにとっては、作家こそすべてである。作品は無である。

 どういう傑作でも、作家以上ではない。作家を飛躍し超越した作品というものは、読者の眩惑である。君は、いやな顔をするであろう。読者にインスピレエションを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗とか生野暮とかといやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきり言ってもよい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。君がまさしく聡明ならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑えるはずだ。笑えないならば、今後、かしこそうに口まげる癖をよしたまえ。

 おれは、いま、君をはずかしめる意図からこの小説を書こう。この小説の題材は、おれの恥さらしとなるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫の情を求めまい。君より高い立場によって、人間のいつわりない苦悩というものを君の横面にたたきつけてやろうと思うのである。

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晩年

1936年6月25日に砂子屋書房から刊行された太宰治の記念すべき第一著作集です。第一回芥川龍之介賞候補作となった「逆行」を含む15の短編が収録されています。後の著作集に再録されている作品も少くありません。「私はこの短編集一冊のために、十箇年を棒に振った」という太宰。書きまくった「原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじてこれだけである」とは本人の弁。1941年、一部を手直しして、同書房から改版刊行されました。1947年には新潮文庫に登場、その後、出版社各社から刊行され現在に至っています。ITmedia 名作文庫では、巻頭に解説「俗出発点にあったバリエーションを愉しむ」(北条一浩)を収録し、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ現代仮名遣いへ改めるとともに、常用外漢字にはルビを振り読みやすくした縦書版電子書籍をお届けします。(近日刊行予定)