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或る女(9) (1/6)

 底光りのする雲母色きららいろの雨雲が縫い目なしにどんよりと重く空いっぱいにはだかって、本牧ほんもくの沖合まで東京湾の海は物凄ものすごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。昨日の風がいでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。

 靴の先で甲板をこつこつたたいて、俯向うつむいてそれを眺めながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤は独語ひとりごとのように葉子に言った。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、本当はさして注意もせずに、ちょうど自分のの前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇もなげな田川法学博士の眼尻の下がった顔と、その夫人の痩せぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭く眺めやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川女史は先刻から田川夫人のそばききって、世話好きな、人のい叔母さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子の方へは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二、三間離れたところに、蜘蛛くものような白痴の小婢こおんなに背負わして、自分は葉子から預かった手かばん袱紗ふくさ包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見て呆気あっけに取られていた。葉子の乳母うばは、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角に畳んだ手拭いを真っ赤になった眼のところに絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたように隅の方にかたまっていた。

 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやると言い聞かせられていた。田川といえば、法曹界ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶に鮮やかであった。感受力の鋭敏なそして何らかの意味で自分の敵にまわさなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は永いこと宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、情のほしいままな、野心の深い割合に手練タクトの露骨な、良人おっとを軽く見てややともするとかさにかかりながら、それでいて良人から独立することの到底出来ない、いわばしんの弱い強がりではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中で微笑ほほえまずにはいられなかった。

「何だか話が混雑したようだけれども、それだけ言っておいて下さい」

 ふと葉子は幻想レエリーから破れて、古藤の言うこれだけの言葉を捕らえた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句は大抵聞き漏らしていた癖に、空々そらぞらしげにもなくしんみりとした様子で、

「確かに......けれどもあなた後から手紙ででも詳しく書いてやって下さいましね。間違いでもしていると大変ですから」

 と古藤をのぞき込むようにして言った。古藤は思わず笑いを漏らしながら、「間違うと大変ですから」という言葉を、時折り葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、

「何、間違ったって大事はないけれども......だが手紙は書いて、あなたの寝床バースの枕の下に置いときましたから、部屋に行ったらどこにでもしまっておいて下さい。それから、それと一緒にもう一つ......」

 と言いかけたが、

「何しろ忘れずに枕の下を見て下さい」

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。