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或る女(6) (1/5)

 葉子が米国に出発する九月二十五日は明日に迫った。二百ニ十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和ともいうべき照り降りの乱雑な空合いが続き通していた。

 葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になった自分の小部屋にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様やしまの派手なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片隅に重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世さだよに着せても似合わしそうな大柄なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴衣はれぎを、床の間の前にある真っ黒に古ぼけたトランクのところまで持って行って、蓋を開けようとしたが、ふとその蓋の真中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙しく手を控えた。これは昨日古藤が油絵具と画筆とを持って来て書いてくれたので、乾ききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太っ腹な鋭い性格と、波乱の多い生涯の極印がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描くことは、木村と顔を見合わす時ほどのいとわしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったり綺麗きれいに分けて、かしい中高の細面ほそおもてに、健康らしい薔薇ばら色を帯びた容貌や、甘過ぎるくらい人情に溺れやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向い合わせると、二人は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜かしいのがやだった。柔和なのが気に障った。殉情的な癖に恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵際まで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえ小ましゃくれて見えた。ことに東京生まれと言ってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香を嗅ぎ出した時にはんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝つき合わせた時に厭やだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴衣をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白み始めて、蝋燭ろうそくの黄色い炎が光の亡骸なきがらのように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店くぎだなの狭い通りを、河岸かしで仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をきながら通るのが聞こえ出した。葉子は今日一日に眼まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠を下ろすものには錠を下ろしきって、雨戸を一枚繰って、そこからし込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷に包み込んだ。そしてそれを抱えて、手燭を吹き消しながら部屋を出ようとすると、廊下に叔母が突っ立っていた。

表記等について

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。