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或る女(49) (1/2)

 手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶はんもん、それは激しい驟雨しゅううが西風に伴われて嵐がかった天気模様になったその夕方のことだった。

 その日の朝から何となく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、強いてそういう風に自分を説服して、憂慮を抑えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それとともに激しい下腹部の疼痛とうつうが襲って来た。子宮底穿孔せんこう?! なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気をまわした。気を廻しては強いてそれを否定して、一時いっとき延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかし無駄だった。つやが慌てて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。

 医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢ひょうのうが下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣ねまきがちょっと肌に触るだけのことにも、生命をひっぱたかれるような痛みを覚えて思わずきゃっと絹を裂くような叫び声を立てた。見る見る葉子は一寸の身動きも出来ないくらい疼痛に痛めつけられていた。

 激しい音を立てて戸外では雨の脚が瓦屋根をたたいた。むしむしする昼間の暑さは急に冷え冷えとなって、にわかに暗くなった部屋の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び廻った。青白い薄闇に包まれて葉子の顔は見る見る崩れて行った。痩せ細っていた頬はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有ちゅううの中を所嫌わずおどおどと何物かを探し求めるように輝いた。美しく弧を描いて延びていた眉は、めちゃくちゃに歪んで、眉間の八の字のところに近々と寄り集まった。かさかさに乾ききった唇からは吐く息気いきばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体の分からない動物が悶えもがいているだけだった。

 間をおいてはさし込んで来る痛み......鉄の棒を真っ赤に焼いて、それで下腹の中を所嫌わずえぐり廻すような痛みが来ると、葉子は眼も口も出来るだけ堅く結んで、息気いきもつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見廻すだけの気力もなかった。天気なのか嵐なのか、それも分からなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現れたように見えた。少し痛みが退くとほっ吐息といきをして、助けを求めるようにそこに附いている医員に眼ですがった。痛みさえ治してくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のように体中を通り抜けた。倉地がいてくれたら......木村がいてくれたら......あの親切な木村がいてくれたら......そりゃ駄目だ。もう駄目だ。......駄目だ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんなことで......痛い痛い痛い......つやはいるのか(葉子は思いきって眼を開いた。眼の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、......うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか......んな他人だ......何の縁故もない人たちだ......皆んなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ......この悩みの百分の一でも知ったら......あ、痛い痛い痛い!......定子......お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子......私も死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは......ひどい、これで死なれるものか......こんなにされて死なれるものか......何か......どこか......誰か......助けてくれそうなものだのに......神様! あんまりです......

 葉子は身悶えも出来ない激痛の中で、シーツまでとおるほどな油汗を体中にかきながら、こんなことをつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただ時々痛い痛いと言うのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。