» 公開

或る女(48) (1/6)

 その翌朝手術台に上がろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼び鈴の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じているところだったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなりいやになって、唇をぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずたずたに裂いてしまった。それは愛子に宛てた手紙だったのだ。今日は手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにと認めたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈を流れているどす黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこにっ倒れる、そんなことになったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、何とか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇ちゅうちょが来た。もし手術中にはしたない囈言うわごとでも言ってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻な愛子が面も背けずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心を満足するようなことがあったら。こんな手紙を受け取ってもてんで相手にしないで愛子が来なかったら......そんなことを予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。

 つやは恐ろしいまでに激昂げっこうした葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほどしゃくさわった。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。誰も彼もそうだ。医者までがそうだ。

「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前は私を気狂いとでも思っているんだろうね。......早く手術をして下さいってそう言っておいで。私はちゃんと死ぬ覚悟をしていますからってね」

 昨夕ゆうべなつかしく握ってやったつやの手のことを思い出すと、葉子は嘔吐を催すような不快を感じてこう言った。汚い汚い何もかも汚い。つやは所在なげにそっとそこを立って行った。葉子は眼でみつくようにその後ろ姿を見送った。

 その日天気は上々で東向きの壁は触って見たら内部からでもほんのりと暖か味を感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子は昨日までの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙っててはいられないくらい、体が動かしたかった。動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わって見たいような捨て鉢な気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋も乱したまま部屋の中を片づけようとして床の間のところに行った。懸け軸もない床の間の片隅には昨日古藤が持って来た花が、暑さのために蒸れたようにしぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラス瓶ごとそれを持って縁側のところに出た。そしてその花のかたまりの中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍ししから来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって行って没義道もぎどうにそれを爪も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしては瓶から引き抜いて手欄てすりから戸外に投げ出した。薔薇ばら、ダリア、小田巻、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たる汚い路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一掴ひとつかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラス瓶を力任せにたたきつけた。瓶は眼の下で激しく壊れた。そこからあふれ出た水が乾ききった縁側板に丸い斑紋をいくつとなく散らかして。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。