» 公開

或る女(47) (1/4)

 その夜六時過ぎ、つやが来て障子を開いてだんだん満ちて行こうとする月が瓦屋根の重なりの上にぽっかり上ったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の枕もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませて見た。つやは薄明かりにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。

「あなたが手術のために入院なさったことを岡君から聞かされて驚きました。で、今日が外出日であるのを幸いにお見舞いします。

「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕は本当にあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国に漏らす商売に関係したことが知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には二人ほどの外妾がいしょうがあると附け加えて書いてあるのを見て、本当にあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないで下さい。僕には皮肉は言えません。

「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習志野ならしのの方に演習に行きます。木村からの便りでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。

「花を持って来て見ました。お大事に。

古 藤 生」


 つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種侮蔑するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾を二人持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であって見ればあてにはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子くらいのことを想像して、記者ならば言いそうなことだ。ただそう軽くばかり思ってしまった。

 つやがその花束をガラス瓶に活けて、何にも飾ってない床の上に置いて行った後、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。

 その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきりと葉子の心に立ち現れた。もし手術の結果、子宮底に穿孔せんこうが出来るようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんなことをふと思い起こした。部屋の姿も自分の心もどこと言って特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しないことだった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかということばかりだった。しかし今は死の方がそろそろと近寄って来ているのだ。

 月はだんだん光を増して行って、電灯にともっていた。眼の先に見える屋根の間からは、炊煙すいえんだか、蚊遣火かやりびだかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履物、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつもの通り取りきながら、そして部屋の中はとにかく整頓して灯が点っていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がい寄って来ていた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。