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或る女(46) (1/6)

 真っ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段はしごだんがあったり、日当たりのいい中二階のような部屋があったり、納戸と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈にたくさんある待合の建物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木かじき病院というその病院の看護婦になっていた。

 長く天気が続いて、その後に激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉きなこでまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しとはだを汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町に出た時、愛子の車は日本橋の通りを真っ直ぐに一足先に病院に行かして、葉子は外濠そとぼりに沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店くぎだなの横丁に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所よそながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌まえほろの隙間からのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中を覗いて見た。門札には叔父の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂病院という看板は相変わらず玄関のなげしに見えていた。長三洲と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子が亜米利加アメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子がくしを折って急に泣き出したのも、貞世が怒ったような顔をして眼に涙を一杯めたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。

「もういい早くやっておくれ」

 そう葉子は車の上から涙声で言った。車は梶棒かじぼうを向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋の方に走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母のことを泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴のももう随分大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が......葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の児も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子のことを思うとどうしたわけか定子のことを胸が痛むほどきびしく想い出してしまった。鎌倉に行った時以来、自分の懐からもぎ放してしまって、金輪際忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が......それはその場合葉子を全くみじめにしてしまった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。