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或る女(45) (1/4)

 このことがあった日から五日経ったけれども倉地はぱったり来なくなった。便りもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿の方を調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出ると言って姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろなことを尋ねに来たとも言っているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。

「事重大となり姿を隠す。郵便では累を及ぼさんことを恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちには何とかする。読後火中」

 とだけしたためて葉子への宛名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手蹟には間違いない。しかしあの発作以後ますますヒステリックに根性のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造りごとだと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やるせない恨みと憤りが眼もくらむほどに頭の中を攪乱かくらんした。

 岡と愛子とがすっかり打ち解けたようになって、岡がほとんど入り浸りに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。

「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないで下さいまし。こんなことになると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。私たちのことは私たちがしますから。私はもう他人に頼りたくはなくなりました」

「そうおっしゃらずにどうか私をあなたのおそばに置かして下さい。私、決して伝染なぞを恐れはしません」

 岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑と言ったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうして言えよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃いんぎんを通わし合っていないと誰が断言出来る。愛子は岡をたらし込むくらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子くらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜疑心さいぎしんあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどのことは手もなくしてのけることが出来た。そして自分は愛子よりももっと無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せることがある。

「そんなにお考えならおいで下さるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げることは出来ないんですからそれは御承知下さいましよ。ちゃんと申し上げておかないと後になっていさくさが起るのはいやですから......愛さんお前も聞いているだろうね」

 そう言って葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布を縫っている愛子の方にも振り向いた。首垂うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥のために葉子を見かえることも出来ないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりと言えば露骨な言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかり見窮みきわめられなかった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。