» 公開

或る女(44) (1/5)

 たたきつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでも出来るだけ豊かな快い夜昼を送るようにのみ傾いていたので、貞世の病院生活にも、誰に見せてもひけを取らないだけのことを上辺ばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中で一番優れたものを選んで来て見ると、すべてのことまでそれにふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を二人も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護をどこまでも自分一人でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を二人やとって交代に病院に来さして、洗い物から食事のことまでをまかなわした。葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いはとにかく、味はとにかく、何よりもきたならしい感じがしてはしもつける気になれなかったので、本郷通りにあるる料理屋から日々入れさせることにした。こんな塩梅あんばいで、費用は知れないところに思いのほかかかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から支払おうとした時は、いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。葉子はそれだからなおさらのこともう来そうなものだと心待ちをしたのだった。それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って行かなければならなかった。まだまだと思っているうちに束の厚みはどんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済のことなどは忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく支払いをした。

 七月に入ってから気候はめっきり暑くなった。しいの古葉もすっかり散り尽くして、松も新しい緑に代わって、草も木も青いほのおのようになった。長く寒く続いた五月雨の名残で、水蒸気が空気中に気味悪く飽和されて、さらぬだに急に堪えがたく暑くなった気候をますます堪えがたいものにした。葉子は自身の五体が、貞世の恢復かいふくをも待たずにずんずん崩れて行くのを感じないわけには行かなかった。それとともに勃発的に起こって来るヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作に襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うようなことがたびたびになった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守ることを余儀なくされた。

 葉子のヒステリーは誰彼の見界みさかいなく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。何と言われても罵られても、打ち据えられさえしても、屠所としょの羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳癪かんしゃくこうじるばかりだった。あんな素直な殊勝気な風をしていながらしらじらしくも姉を欺いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾はらんが起こして見たかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊まりするようになったためだと葉子は自分決めに決めていた――幾時聞かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の唇から岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔をあからめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種になった。

 もう来られそうもないと言いながら倉地も三日に一度くらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄想に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とをつないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身に持ちかけて見たり、よそよそしく取りなして見たり、その時の気分気分で勝手な無技巧なことをしていながらも、どうしてものがれ出ることの出来ないのは倉地に対するこちんと固まった深い執着だった。それは情なくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根を憫然びんぜんに思ってそぞろに涙を流して、みずからを慰めるという余裕すらなくなってしまった。乾ききった火のようなものが息気いき苦しいまでに胸の中にぎっしりつまっているだけだった。

 ただ一人貞世だけは......死ぬか生きるか分からない貞世だけは、この姉を信じきってくれている......そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。

「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で独語ひとりごちた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。