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或る女(43) (1/4)

 その夜遅くまで岡は本当に忠実まめやかに貞世の病床に附き添って世話をしてくれた。口少なにしとやかによく気をつけて、貞世の欲することをあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一遍な看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜の更けるまで氷嚢ひょうのうを取りかえたり、熱を計ったりした。

 高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっと向きをかえてかしてから、「さあもうお家ですよ」と言うと、うれしそうに笑顔を漏らしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き永らえていられよう。貞世をこんな苦しみに陥れたものはんな自分だ。自分が前通りに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい......そう思って来ると葉子は誰にびようもない苦悩に息気いきづまった。

 緑色の風呂敷で包んだ電灯の下に、氷嚢を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い息気づかいで夢現ゆめうつつの間をさまようらしく、聞きとれない囈言うわごとを時々口走りながら、眠っていた。岡は部屋の隅の方に慎ましく突っ立ったまま、緑色を透かして来る電灯の光でことさら青白い顔色をして、じっと貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます重るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず氷嚢の位置を取りかえてやったりなどしていた。

 そして短い夜はだんだんに更けて行った。葉子の眼からは絶えず涙がほうり落ちた。倉地と思いもかけない別れ方をしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。

 と、ふっと葉子は山内さんないの家の有様を想像に浮かべた。玄関側の六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強部屋ででもあろうか、この夜更けを下宿から送られた老女が寝入った後、倉地と愛子とが話し続けているようなことはないか。あの不思議に心の裏を決して他人に見せたことのない愛子が、倉地をどう思っているかそれは分からない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか者だ。愛子は骨に徹する怨恨を葉子に対して抱いている。その愛子が葉子に対して復讐ふくしゅうの機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったと誰が保証し得よう。そんなことは遠の昔に行われてしまっているのかも知れない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を...太陽が消えてなくなったような寒さと闇とが葉子の心におおいかぶさって来た。愛子一人ぐらいを指の間に握りつぶすことが出来ないと思っているのか......見ているがいい。葉子は苛立いらだちきって毒蛇のような殺気立った心になった。そして静かに岡の方を顧みた。

 何か遠い方の物でも見つめているように少しぼんやりした眼つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、その方に素早く眼を転じたが、その物凄い無気味さに脊髄せきずいまで襲われた風で、顔色をかえて眼をたじろがした。

「岡さん。私一生のお頼み......これからすぐ山内の家まで行って下さい。そして不用な荷物は今夜のうちに皆んな倉地さんの下宿に送り返してしまって、私と愛子の普段使いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子に言いつけて下さい。もし倉地さんが家に来ていたら、私から確かに返したと言ってこれを渡して下さい(そう言って葉子は懐紙に拾円紙幣の束を包んで渡した)。何時までかかっても構わないから今夜のうちにね。お頼みを聞いて下さって?」

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。