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或る女(42) (1/4)

「お姉様......行っちゃいやぁ......」

 まるで四つか五つの幼児のように頑是がんぜなく我儘わがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。折りからじめじめと降りつづいている五月雨に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ広い廊下を、上草履の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、夜昼の見界みさかいもなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。貞世が腸チフスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来なかったのだ。葉子は愛子一人が留守する山内さんないの家の方に、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとに言ってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋の方のある病院にいるということが知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでいてもらうことにした。病院に来てからの十日――それは昨日から今日にかけてのことのように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど永くも感じられた。

 その長く感じられる方の期間には、倉地と愛子との姿が不安と嫉妬しっととの対照となって葉子の心の眼に立ち現れた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬と言ってもよかった。そこに一人残された愛子......長い時間の間にどんなことでも起こり得ずにいるものか。そう気をまわし出すと葉子は貞世の寝台の傍らにいて、熱のために唇がかさかさになって、半分眼を開けたまま昏睡こんすいしているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっとなってそこを飛び出そうとするような衝動に駆り立てられるのだった。

 しかしまた短く感じられる方の期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親からめるほど溺愛できあいもされ、葉子の唯一の寵児ちょうじともされ、健康で、快活で、無邪気で、我儘で、病気ということなどはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な呪詛じゅその犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続くがけの際に両手だけで垂れ下がった人が、そこの土がぼろぼろと崩れ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめに貞世を陥れてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も腸も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世を仮にもいじめるとは......まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世を仮にも没義道もぎどうに取り扱ったとは......葉子は自分ながら葉子の心のらちなさ恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで詮じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき抱いてやって、

「貞ちゃんお前はよくこそ治ってくれたね。姉さんを恨まないでおくれ。姉さんはもう今までのことをんな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも後生大事にしてあげますからね」

 としみじみと泣きながら言ってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死の方へ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。

 この奇怪な心の葛藤に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬか治るかして一息つく時が来たら、どうして肉体を支えることが出来ようかと危危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。

 そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世のことばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれ代わったようにその心は倉地で一杯になってしまった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。