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或る女(41) (1/5)

 階子段はしごだんの上り口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋に来て見ると、胸毛をあらわに襟をひろげて、セルの両袖を高々とまくり上げた倉地が、胡坐あぐらをかいたまま、電灯の灯の下に熟柿じゅくしのように赤くなってこっちを向いて威丈高になっていた。古藤は軍服の膝をきちんと折って真っ直ぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびりびりと逆立って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい」するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな球のように腰を虐げた。それは二重に葉子をいらいらさせた。

「あなた方は一体何をそんなに言い合っていらっしゃるの」

 もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有な仕方で切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。

「何をと言ってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と二言目には鼻にかけたようなことを言わるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、一人よがりのことは言うてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、言い立てなさるので、筋が違っていようと言って聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だが一体いくつです」

 葉子に言って聞かせるでもなくそう言って、倉地はまた古藤の方に向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように激昂して黙っていた。

「答えるが恥ずかしければ強いても聞くまい。が、いずれ二十は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに他人ひとの生活の内輪にまで立ち入って物を言うは馬鹿の証拠ですよ。男が物を言うなら考えてから言うがいい」

 そう言って倉地は言葉の激昂している割合に、また見かけのいかにも威丈高な割合に、十分の余裕を見せて、空嘯そらうそぶくように打ち水をした庭の方を見ながら団扇うちわをつかった。

 古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、

「葉子さん...まあ、す、坐って下さい」

 と少しどもるように強いて穏やかに言った。葉子はその時はじめて、我れにもなくそれまでそこに突っ立ったままぼんやりしていたのを知って、自分にかつてないようなとんきょなことをしていたのに気がついた。そして自分ながらこのごろは本当に変だと思いながら二人の間に、出来るだけ気を落ち着けて座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、顳顬こめかみのところに太い筋を立てていた。葉子はその時分になってはじめて少しずつ自分を恢復かいふくしていた。

「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がったところだからこんな時むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。何ですか知りませんけれども今夜はもうそのお話は綺麗きれいにやめましょう。いかが?......またゆっくりね......あ、愛さん、あなたお二階に行って縫いかけを大急ぎで仕上げておいて頂戴、姉さんがあらかたしてしまってあるけれども......」

 そう言って先刻から逐一二人の争論を聴いていたらしい愛子を階上に追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を見いだしたように、

「倉地さんに物を言ったのは僕が間違っていたかも知れません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたに言わして下さい。お世辞でも何でもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない誠実なところが、どこかに隠れているように思っていたんです。僕の言うことをその誠実なところで判断して下さい」

「まあ今日はもういいじゃありませんか、ね。私、あなたのおっしゃろうとすることはよっく分かっていますわ。私決してあだやおろそかには思っていません本当に。私だって考えてはいますわ。そのうちとっくり私の方から伺っていただきたいと思っていたくらいですからそれまで......」

「今日聞いて下さい。軍隊生活をしていると三人でこうしてお話しする機会はそうありそうにはありません。もう帰営の時間がせまっていますから、長くお話は出来ないけれども......それだから我慢して聞いて下さい」

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。