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或る女(40) (1/5)

 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森の中から小さな羽虫が集まってうるさく飛びまわり、藪蚊やぶかがすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋で酒を飲んでいた。葉子は痩せ細った肩を単衣物ひとえものの下にとがらして、神経的に襟をぐっき合わせて、きちんと膳の側にすわって、華車きゃしゃ団扇うちわで酒の香に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々こんこんと泉のごとく湧き出る話題はなかった。たまに話が少し弾んだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつんと会話を杜絶とだやしてしまった。

「貞ちゃんやはり駄々をこねるか」

 一口酒を飲んで、め息をつくように庭の方に向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子の方を向いてこう尋ねた。

「ええ、仕様がなくなっちまいました。この四、五日ったらことさらひどいんですから」

「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないでおくがいいよ」

「私時々本当に死にたくなっちまいます」

 葉子は途轍とてつもなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょんなことを言った。

「そうだ俺もそう思うことがあるて......。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるが面倒になる。船でもが浸水し始めたららちはあかんからな。......したが、俺はまだもう一反り反って見てくれる。死んだ気になって、やれんことは一つもないからな」

「本当ですわ」

 そう言った葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。

「正井の奴が来るそうじゃないか」

 倉地はまた話題を転ずるようにこう言った。葉子がそうだとさえ言えば、倉地は割合に平気で受けて「困った奴に見込まれたものだが、見込まれた以上は仕方がないから、空腹ひもじがらないだけの仕向けをしてやるがいい」と言うに違いないことは、葉子によく分かってはいたけれども、今まで秘密にしていたことを何とか言われやしないかとの気遣いのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきりとはわからない衝動に駆られて、何ということなしに、

「いいえ」

 と答えてしまった。

「来ない?......そりゃお前いい加減じゃろう」

 と倉地はたしなめるような調子になった。

「いいえ」

 葉子は頑固に言い張ってそっぽを向いてしまった。

「おいその団扇を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん......来ないことがあるものか」

「誰からそんな馬鹿なことお聞きになって?」

「誰からでもいいわさ」

 葉子は倉地がまた歯に衣着きぬきせた物の言い方をすると思うとかっと腹が立って返辞もしなかった。

「葉ちゃん。俺は女の機嫌を取るために生まれて来はせんぞ。いい加減を言って甘く見くびるとよくはないぜ」

 葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子のね方に不快を催したらしかった。

「おい葉子! 正井は来るのか来んのか」

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。