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或る女(4) (1/5)

 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄に寄りかかりながら木部のことをいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃の先に松並木が見えて、その聞から低く海の光る、平凡な五十三次風な景色が、電柱で句読を打ちながら、空洞うつろのような葉子の眼の前で閉じたり開いたりした。赤蜻蛉あかとんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石ひうちいしから打ち出される火花のように、赤い印象を眼の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂もみじざかの桜並木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。

 煤煙ばいえんで真黒にすすけた煉瓦れんが壁の陰に汽車がまると、中から一番先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルをつえに弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先を越してしまって、二人は一番あとになっていた。客を取りおくれた十四、五人の停車場付きの車夫が、待合部屋の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に眼をつけて何かと噂し合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつな卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびりびりと感じて来た。

 何しろ葉子は早く落ちつくところを見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って行って見たが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにも馬鹿にしたような断り方をしたといった。二人は仕方なくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜というところには似もつかぬような古風な外構えで、美濃紙のくすぶり返った置行灯おきあんどんには太い筆つきで相模屋さがみやと書いてあった。葉子は何となくその行灯に興味を牽かれてしまっていた。悪戯好きなその心は、嘉永かえいごろの浦賀にでもあればありそうなこの旅籠屋はたごやに足を休めるのを恐ろしく面白く思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれたような女中までが眼に留まった。そして葉子が体よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、

「どこか静かな部屋に案内して下さい」

 と無愛想に先を越してしまった。

「へいへい、どうぞこちらへ」

 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と眼を見合わせて、蔑んだらしい笑いを漏らして案内に立った。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。