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或る女(39) (1/4)

 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服が羨ましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。従って晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたか知れなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つ身体に申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いも寄らなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。今日こそは一日気が晴れ晴れするだろうと思うような日は一日もなかった。今日もまたつらい一日を過ごさねばならぬというその忌まわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには十分過ぎた。

 五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠退とおのいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい挑みと、激しい嫉妬と、理不尽な疳癖かんぺきの発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない節があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内場破うちばわれが起こって、倉地の力でそれをどうすることも出来ないらしいことはおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしいことは確かだった。それにしても倉地の疎遠はひたすらに葉子には憎かった。

 ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そう言って葉子はせがみにせがんだ。

「こればかりは女の知ったことじゃないわい。俺がくらい込んでもお前にはとばっちりが行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。......二度と聞きたいとせがんで見ろ、俺はうそほんなしにお前とは手を切って見せるから」

 その最後の言葉は倉地の平生に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気いきをつめてそれ以上をどうしても迫ることが出来ないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうすることも出来ないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむより仕方がなかった。

 堕落と言われようと、不貞と言われようと、他人手ひとでを待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らずらず自分で選び取った道の行くてに眼もくらむような未来が見えたと有頂天になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名も捧げてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり打って地上に崩れてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上でやいばに伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、一番ふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時いっときなりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思うこともあった。

 実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらと普段空想していたその心持ちにきびしく捕らえられて前後も知らず家を飛び出したことがあった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町裏坂を下りて行ったが、ふと自分の体がよごれていて、この三、四日湯にはいらないことを思い出すと、死んだ後の醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿に忍んで行って、さめかけた風呂につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手拭い掛けの竹竿たけざおれた手拭いが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人の妹のことがひしひしと心にせまるようだった。葉子の決心はしかしそのくらいのことでは動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。