» 公開

或る女(38) (1/4)

「何をそうず怯ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」

 倉地は倉地にしては特にやさしい声でこう言った、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子はとんでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。

「ついシャツを仕替える時それだけ忘れてしまって......」

「言いわけなんぞはいいわい。早く頼む」

「はい」

 葉子はしとやかにそう言って寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタンあなに入れようとしたが、のりこわいのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。

「済みませんがちょっと脱いで下さいましな」

「面倒だな、このままで出来ようが」

 葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。

「駄目か」

「まあちょっと」

「出せ、貸せ俺に。何でもないことだに」

 そう言ってくるりと振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手は烈しく震え出した。

「おい、手伝ってくれてもよかろうが」

 葉子が慌てて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。

「馬鹿! 邪魔をしろと言いやせんぞ」

 葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。

「ごめん下さいね、私お邪魔なんぞ......」

「邪魔よ。これで邪魔でなくて何だ......ええ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」

 倉地は口をとがらして顎を突き出しながら、どしんと足を挙げて畳を踏み鳴らした。

 葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てているところだった。

「胸糞の悪い......おい日本服を出せ」

襦袢じゅばんの襟がかけずにありますから......洋服で我慢して下さいましね」

 葉子は自分が持っていると思うほどのびをある限りに集めて嘆願するようにこう言った。

「お前には頼まんまでよ......愛ちゃん」

 倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下の方に耳を澄ました。葉子はそれでもこんかぎり我慢しようとした。階子段はしごだんしとやかに昇って愛子がいつものように柔順に部屋にはいって来た。倉地は急に相好を崩してにこやかになっていた。

「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」

 愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉かたじしの肉体を美しく折り曲げて、雪白のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃんと倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずうずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の眼には憎々しく映った。

「よけいなことをおしでない」

 葉子はとうとうかっとなって愛子をたしなめながらいきなり手にあるシャツをひったくってしまった。

「貴様は......俺が愛ちゃんに頼んだになぜよけいなことをしくさるんだ」

 とそう言って威丈高になった倉地には葉子はもう眼もくれなかった。愛子ばかりが葉子の眼には見えていた。

「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどんの仕事もろくろく出来はしない癖によけいなところに出しゃばるもんじゃないことよ。......下に行っておいで」

 愛子はこうまで姉にたしなめられても、逆らうでもなく怒るでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な眼で姉をじっと見て静々とその座を外してしまった。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。