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或る女(37) (1/6)

 天心に近くぽつりと一つ白く湧き出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建物のほかには見渡すかぎり古く谷々やとやとにまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落椿おちつばきが一重桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味あかみを持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木までが美しかった。蛙の声が眠く田圃たんぼの方から聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑鬧ざっとうもなく、時折り、同じ花簪はなかんざしを、女は髪に男はえりにさして先達らしいのが紫の小旗を持った、遠いところから春をって経めぐって来たらしい田舎の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやかに話し合いながら通るのに行きうくらいのものだった。

 倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって見えた。二人は停車場の付近にあるある小綺麗こぎれいな旅館を兼ねた料理屋で中食ちゅうじきをしたためた。日朝様ともどんぶく様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の祈躊きとうだという団扇太鼓うちわだいこの音がどんぶくどんぶくと単調に聞こえるようなところだった。東の方はその名さながらの屏風山びょうぶやまが若葉で花よりも美しく装われてかすんでいた。短く美しくり込まれた芝生の芝はまだえていなかったが、ところまばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、八重桜はのぼせたように花で首垂うなだれていた。もうあわせ一枚になって、そこに食物を運んで来る女中は襟前をくつろげながら夏が来たようだと言って笑ったりした。

「ここはいいわ。今日はここで宿とまりましょう」

 葉子は計画から計画で頭を一杯にしていた。そしてそこにらないものを預けて、江の島の方まで車を走らした。

 帰りには極楽寺坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は稲村ケ崎の方に傾いて砂浜はやや暮れ初めていた。小坪の鼻のがけの上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その崕下の民家からは炊煙が夕靄ゆうもやと一緒になって海の方に棚引いていた。波打ち際の砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄あずまげたの歯を吸った。二人は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出遇ったが、葉子は自分の容貌なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ち勝っているのを意識して、軽い誇りと落ち着きを感じていた。

 倉地もそういう女を自分の伴侶とするのをあながち無頓着には思わぬらしかった。

「誰かひょんな人に遇うだろうと思っていましたがうまく誰にも遇わなかってね。向こうの小坪の人家の見えるところまで行きましょうね。そうして光明寺の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹がいいき具合になるわ」

 倉地は何とも答えなかったが、無論承知でいるらしかった。葉子はふと海の方を見て倉地にまた口を切った。

「あれは海ね」

「お仰せの通り」

 倉地は葉子が時々途轍とてつもなくわかりきったことを少女みたいな無邪気さで言う、またそれが始まったというように渋そうな笑いを片頬に浮かべて見せた。

「私もう一度あの真中心まっただなかに乗り出して見たい」

「してどうするのだい」

 倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながら言った。

「ただ乗り出して見たいの。どーっと見界みさかいもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、転覆ひっくちかえりそうになっては立て直って切り抜けて行くあの船の上のことを思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗って見たくなりますわ。こんなところやねえ、住んで見ると」

 そう言って葉子はパラソルを開いたまま柄の先で白い砂をざくざくと刺し通した。

「あの寒い晩のこと、私が甲板の上で考え込んでいた時、あなたが灯をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時のことなどを私はわけもなく思い出しますわ。あの時私は海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。おかの上にはあんな音楽は聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい......あれは何?」

「何だそれは」

 倉地は怪訝けげんな顔をして葉子を振り返った。

「あの声」

「どの」

「海の声......人を呼ぶような......お互いで呼び合うような」

「何にも聞こえやせんじゃないか」

「その時聞いたのよ......こんな浅いところでは何が聞こえますものか」

「俺は永年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いたことはないわ」

「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。......確かに聞こえましたよ、あの晩に......それは気味の悪いような物凄ものすごいような......いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった......その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、めいめい死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやりした大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの......どこかで今でもその声が聞こえるようよ」

「木村がやっているのだろう」

 そう言って倉地は高々と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海の方を眺めやった。眼も届かないような遠くの方に、大島が山の腰から下は夕靄にぼかされてなくなって、上の方だけがへの字を描いてぼんやりと空に浮かんでいた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。